武蔵の御牧

499 ~ 500
武蔵国と甲斐・信濃・上野三国を組み込んで九世紀初期に確立した御牧(みまき)の体制は、九世紀を通じて徐々に整備され、十世紀になると『延喜式』に見られるようなほぼ完成した姿を現わした(資一―299~303)。武蔵国の御牧としては、石川牧・小川牧・由比(ゆい)牧・立野牧・小野牧・秩父牧の六牧が知られる(表4―19)。御牧が設定された時期は、武蔵国が御牧の体制に組み込まれた九世紀と、十世紀以降とに分けられる。また、御牧となる前身を見ると、当初は令制の牧から御牧への転入が行われ、後には天皇・上皇の私領である院の牧からの転入が見られる。こうした前身の違いは、牧馬に捺す焼印の違いに表れており、令制の牧では律令の規定に基づく「官」字の印が用いられ、私牧では「官」字以外の印が用いられた。
表4―19 武蔵国の御牧
名称 前身 焼印 勅旨牧となった時期 駒牽の期日
(10世紀)
貢馬の数 別当 備考
石川牧
小川牧
由比牧
令制の牧か 「官」字 9世紀? 8月25日 30頭 1名 「諸牧」と総称され、多くは3牧が一括して扱われる。
立野牧 令制の牧か 「官」字 延喜9年(909) 8月25日 20頭 1名 貢馬数はもと15頭。駒牽儀式は「諸牧」と別立。
小野牧 院の牧(陽成上皇) 「抎」字 承平元年(931) 8月20日 40頭 1名 貞観年間には「冷然院」(清和天皇)牧か。
秩父牧 院の牧(宇多上皇→醍醐天皇) 「未」字 承平3年(933) 8月13日 20頭 1名 秩父郡石田牧・児玉郡阿久原牧とからなる。

 以上から、武蔵国では十世紀以降もなお盛んに御牧の設定が行われていることがわかり、これは武蔵国御牧の特徴であろう。それととともに、その前提として、院の牧の設置が武蔵国で進んでいた状況を認めることができる。承平元年(九三一)に御牧となった小野牧は、延喜十七年に陽成院領として貢馬を行っていることが見えるから(資一―263)、陽成上皇の牧から御牧に変更されたものであろう。上皇・天皇の私的な牧として九世紀中期には存在していたことが考えられる(『日本三代実録』・貞観七年十二月十九日条)。承平三年に御牧となった秩父牧も、延喜年間には宇多院(宇多上皇)領として既に存在しており(資一―249)、その後朱雀院(すざくいん)(醍醐天皇)に伝領され、醍醐天皇の死後御牧となったものである。