牧別当

500 ~ 503
御牧には、管理・運営の責任者として牧監(ぼくげん)もしくは別当が置かれた。甲斐・信濃・上野国には牧監が置かれ、定員は国ごとに一名ないし二名である。武蔵国には別当が置かれ、国ごとではなく一牧ないし数牧ごとに一名が任命された。武蔵国にのみ牧監ではなく別当が置かれた理由は明らかでないが、武蔵の御牧は成立時期や前身がさまざまであり、十世紀になっても御牧の設定が進行中であったことなどから、国内の御牧全体を統括する牧監のような官職を設置しにくい事情があったものと思われる。
 牧監・別当は、牧の経営に関する現地の最高責任者として朝廷から任命される官職であり、牧馬の維持や牧の柵・堀の管理に責任を持ち、国司とともに牧馬の点検に立ち会って牧馬帳を作成し、また貢馬を率いて上京し駒牽の儀式に参加した。これらは本来国司の果たすべき職務であり、牧監・別当はいわば律令の定める国司の職掌のうち牧にかかわる部分を独立させるかたちで成立した官職と言える。事実、牧監・別当は国司と同様に四年の任期が定められ、交替に際しては解由状(げゆじょう)の作成を必要とした。考課(勤務成績の評価)は左右馬寮(めりょう)が扱った。
 武蔵御牧の別当としては、表4―20にあるような人物が知られている。彼らの多くは中央の権力者と密接な関係を持ち、それを背景に在地社会での地位を向上させ、武蔵国内ないし東国の政治社会で活動していることが知られる。
表4―20 武蔵国の牧別当
年代 氏名 職名 身分 備考 出典
延喜4年
(904)
太政官符。別当の任期を4年とし、解由を責めることを定める。 政事要略55
延喜5年
(905)
(高向)利春 秩父 牧司 資1―250
延喜9年
(909)
藤原道行 立野 別当 蔭孫 勅旨牧となる。 資1―252
承平元年
(931)
小野諸興 小野 別当 散位 勅旨牧となる。 資1―305
承平3年
(933)
藤原惟条 秩父 別当 散位 勅旨牧となる。 資1―310
天慶元年
(938)
小野諸興
小野永興
小野 「牧監」代
諸興弟
駒牽に不参。 資1―323
天慶2年
(939)
藤原惟修 秩父 別当 「惟条」か。秩父御牧別当を勤仕し国用を助けたことにより叙位。 資1―325
長保4年
(1002)
佐伯晴明 諸牧 別当 任符。 資1―417
長元元年
(1028)
(不明) 秩父 「牧監」 駒牽遅延により獄所に拘留される。 資1―456

 まず小野牧の別当として見える小野諸興(もろおき)は、その後、将門の乱に際し武蔵権介となり、押領使(おうりょうし)の一人として乱の鎮圧を命ぜられていることから見て、東国である程度の武力を行使できる力を有していた人物と見られる。諸興の別当となる以前の経歴は不明であるが、小野牧の旧主であった陽成上皇と何らかの関係を持っていたものであろう。また、諸興には永興という弟がいて、この兄弟は名前に「興」の字を通字としている。この時期、表4―21のように「興」の字を名前に持つ小野氏一族の人物が史上に何人か知られる。その経歴も、馬と関わりを持つ武官を務め、あるいは東国の国司を歴任するなどの共通点が見いだせる。彼らは親子・兄弟といったかなり近い親族関係にあった可能性が高く、小野牧の経営に示されるような武士団としての実力を背景に、権力者に近づきながら東国に勢力を確立していったものと推定される。小野氏が、もともと土着の勢力から発展したものであるか、中央氏族であったものが国司等として現地に赴任したことを契機に地方に勢力を扶植したものか断定できない点はあるが、この時期には、京に出仕・居住する場合があったにしても、氏族としての有力な経済基盤を地方に確保し、在地の政治社会で相当な力を振るう存在となっていたことは間違いない。
表4―21 名前に「興」の字を持つ小野氏
氏名 年代 経歴等 出典
小野興道 承和5(838).正.7 正六位上から従五位下に昇叙。 続日本後紀
承和6(839).正.11 左衛門佐(従五位下)に任じられる。 続日本後紀
承和13(846).正.13 陸奥守(従五位下)に任じられる。 続日本後紀
承和13(846).2.29 下野権介を兼ねる。 続日本後紀
小野景興 延長3(925).3.29 内舎人 類聚符宣抄
延長4(926).11.5 舎人として親王の鷹匠を務める。 西宮記臨時4
小野諸興 承平元(931).11.7 小野牧別当に任じられる。 資1―305
天慶元(938).9.8 小野牧「牧監」(別当) 資1―323
天慶2(939).6.9 将門の乱の密告を受け、押領使に任じられる。 資1―334
天慶2(939).6.21 武蔵権介として群盗追捕を命じられる。 資1―335
小野永興 天慶元(938).9.8 小野牧別当諸興の弟、駒牽で諸興の代理となる。 資1―323
小野国興 天慶4(941).11.2 左馬少允 本朝世紀
天慶7(944).5.3 左馬少允 九条殿記
天徳2(958).2.21 右兵衛尉 西宮記3
天徳2(958).4.26 右衛門少尉から右馬助に昇任。 日本紀略
天徳4(960).8.7 右馬助 西宮記5
*将門の乱追討に加わった庵原広統の姉を妻とする。 庵原公系図

 同様の例は、他にも指摘できる。延喜五年(九〇五)に院の秩父牧の牧司として見える高向利春(たかむこのとしはる)は、同十年に武蔵権少掾に任じ、翌年武蔵介、同十四年従五位下を得て、同十八年武蔵守と矢継ぎばやに昇進した。利春は、秩父牧の領主である宇多上皇に近臣として仕えていたものと見られ、叙位は宇多上皇の年爵、守への就任は上皇の院分受領に預かったものである。利春の国司としての昇進は異例の早さであり、また同一の国で昇進していくことも通常の例にはずれている。ここに利春と武蔵国の密接な関係をうかがうことができる。利春が武蔵守であった延喜十九年には、国内の官物の収取をめぐって前任の権介源仕(つかう)の武力襲撃を受けるという事件も発生しており、時に先鋭な利害対立が起きかねない地方政治社会において辣腕をふるう人物であった。