駒牽

503 ~ 507
駒牽(こまひき)は、御牧から京に到着した貢馬を内裏に引き入れ、馬の質を鑑定して馬寮に分配し、また廷臣らに下賜する儀式である。御牧からの駒牽は、弘仁十四年(八二三)九月に天皇が信濃国からの貢馬を武徳殿で謁見し、参議以上に各一頭を与えたというのが史料上の初見である(日本紀略)。この時期には、毎年九月に武徳殿で行われる例であったらしい。その後貞観年間に駒牽の期日の変更がなされ、また儀式の場所も紫宸殿(ししいでん)が恒例となる。武蔵国からの駒牽が史料に見え始めるのもこの時期である。貞観九年(八六七)と十一年の例では、八月二十日に天皇が紫宸殿に出御し、武蔵国からの貢駒を謁見している(資一―215・216)。また、院の牧であった秩父牧・小野牧についても、御牧となる以前の延喜年間にすでに貢馬が内裏に牽進される場合のあったことが知られる(資一―249・250・260)。
 十世紀には駒牽の儀式はより整備され、毎年八月の牧ごとに定められた日に実施されている。武蔵国では秩父牧の駒牽が十三日、小野牧が二十日、「諸牧」と立野牧が二十五日と定められていた。このほか、甲斐の「諸牧」が七日、信濃の「諸牧」が十五日(のち十六日)、甲斐の穂坂牧が十七日、信濃の望月牧が二十三日、上野の「諸牧」が二十九日であった。
 駒牽は、通常、内裏の正殿である紫宸殿に天皇が出御し、王卿が参列して行われる。まず、牽き回しが行われ、第一の御馬を牽いた別当(または牧監)を先頭に近衛(このえ)らに牽かれて貢馬が紫宸殿の南庭に牽き入れられ、そのまま庭中を三廻りほどし、また近衛らが騎乗してみせる。これはいわば、貢馬の質を参会者が点検する意味を持っている。その後、貢馬を二列に整列させ、分取(わけとり)が行われる。分取は、まず左馬寮、次に右馬寮という順で左右が貢馬を順に一頭ずつ選び取る形で進められる。天皇の意向によっては、左右馬寮の分取が始まる前に、上皇・親王・摂関などに送られる馬を選び取る場合もあり、あるいは、左右馬寮の分取がある程度進んだところで一旦中断し、馬寮や近衛の官人、公卿らに一頭ずつ選び取らせて下賜する場合もある。分取が終わると、馬寮への給馬には近衛らが騎乗して庭を東西に馳せ渡り、また下賜を受けた廷臣らは馬を整列させ、天皇の前で拝舞する。武蔵国の場合、秩父牧の駒牽で上皇・親王・摂関らに貢馬が送られた例もあるが、他は左右馬寮の分取のみが行われたようである。また、諸牧と立野牧の駒牽が八月二十五日の同日に行われるが、分取は、まず諸牧の貢馬、次に立野牧の貢馬の順に行われ、別個の扱いをされる原則であった。
 駒牽は、十世紀の前半に最も盛んに行われた。将門の乱で東国が混乱した天慶四年(九四一)には、期日の大幅な遅延を余儀なくされているが、他は遅れても一か月程度に留まっている。しかし十世紀末以降になると、大幅な期日の遅延が目立つようになり、前年分の駒牽が年を越えて行われる例すら見られる。これは、牧を現地で経営する者たちが、さまざまな口実を設けて定められた貢馬数や期日を守らなくなったためである。駒牽が期日通りに行えない場合には、その旨の届けを出すこととなっているが、その場合の理由としてしばしば用いられるのが「御馬逗留(おんまとうりゅう)」である。これは、貢馬は国を出発しているが、京へ向かう路次で逗留を余儀なくされているとして、駒牽の遅延を届け出るものである。十世紀の前半には、実際に途中の河川が氾濫して道を進めなくなったために期日に遅れたり、行路で病気となった貢馬を路次の国に残して療養させたために貢馬数が不足するなどの例が見られるが、後になると「御馬逗留」とはいっても、実際に国から貢馬を進発させたのか疑問な場合がまま見受けられる。また、牧の子馬や母馬が狼や猪に襲われたというような理由をつけて、牧の経営報告である牧馬帳を操作することで、貢馬数の減少を正当化することも可能であった。朝廷は、貢馬の数と期日の厳守を求める法令を出したり、中央から検牧使を派遣するなどの対策をとるが(資一―365・379)、あまり効果はあがらなかった。かつては、中央の官人たちが熱意をもって参加する儀式であった駒牽も、後には担当の官人が不在などの理由で実施できなくなる場合も生じ、武蔵国の駒牽は十一世紀中期以降、史料に見えなくなる。
表4-22 武蔵国の駒牽の実施状況
西暦 月日 遅延 不足 備考 出典
貞観十 八六八 八・二〇 諸牧ヵ 資一-二一五
貞観十一 八六九 八・二〇 諸牧ヵ 一-二一六
延喜三 九〇三 八・一三 秩父 院の牧 一-二四九
延喜五 九〇五 八・一四 秩父 院の牧 一-二五〇
延喜十六 九一六 秩父 院の牧 一-二六〇
延喜十七 九一七 九・七 小野 三〇 院の牧 一-二六三
延喜十九 九一九 八・二五 諸牧ヵ 一-二六八
延長三 九二五 八・一三 秩父 院の牧 一-二七一
承平元 九三一 八・一五 秩父 院の牧 一-三〇四
承平二 九三二 九・七 小野 一-三〇六
九・一五 立野 一-三〇七
九・二五 秩父 院の牧 一-三〇九
承平四 九三四 八・二六 諸牧 一-三一二
承平七 九三七 八・二四 秩父 一-三一七
以前 小野
天慶元 九三八 九・三 秩父 二〇 一-三二二
九・八 小野 四〇 逗留 一-三二三
九・一七 諸牧 三〇 一-三二四
立野 一五 ×
天慶二 九三九 八・二〇 小野 三〇 × 一-三三七
九・七 諸牧 一-三三八
立野 四〇
天慶四 九四一 一一・一〇 諸牧 × 二〇 × 他に択馬使 資一-三四八
立野 × 一〇 × 進上八頭 一-三四九
一二・一五 秩父 × 二〇 他に択馬使 一-三四六
進上四頭 一-三五〇
小野 × 延引 一-三四七
天慶六 九四三 九・一五 秩父 二〇 一-三五三
天慶八 九四五 九・五 秩父 一-三五六
一〇・二〇 諸牧 × 一-三五七
立野 ×
天暦元 九四七 八・二七 小野 一五 × 一-三五九
天暦二 九四八 八・一三 秩父 一-三六〇
一〇・二 諸牧 × 二〇 × 一-三六一
天暦三 九四九 九・五 秩父 二〇 一-三六二
九・二八 諸牧 二〇 × 一-三六三
立野 ×
天暦五 九五一 一〇・二 諸牧 × 二〇 × 一-三六四
立野 × ×
天暦十 九五六 一-三六六
天徳元 九五七 八・一六 秩父 二〇 一-三六七
天徳四 九六〇 秩父 × 延引 一-三六八
応和元 九六一 八・一九 秩父 一-三六九
九・二三 諸牧 一-三七〇
立野 ×
応和二 九六二 八・二八 秩父 逗留 一-三七二
康保二 九六五 九・二九 諸牧 逗留 資一-三七三
康保四 九六七 九・二六 諸牧 二〇 × 一-三七四
天禄三 九七二 一〇・二 秩父 × 一-三七七
天延二 九七四 九・一三 秩父 一-三七八
天元元 九七八 九・二六 秩父 × 一-三八〇
九・二八 立野 × 一-三八一
天元二 九七九 一〇・八 立野 × 一-三八二
天元三 九八〇 八・二五 立野 一-三八四
九・二五 秩父 × 一-三八五
永観二 九八四 一〇・一九 秩父 × 一-三九四
一一・五 諸枚 × 一-三九五
立野 ×
寛和元 九八五 九・八 秩父 一-三九八
正暦元 九九〇 一一・二八 諸牧 × 一-四〇一
正暦四 九九三 ウ一〇・一二 秩父 × × 疲損多減 一-四〇二
一一・九 諸牧 × 一-四〇四
長保元 九九九 二・八 立野 × 前年分 一-四〇九
秩父 × 前年分
一二・五 秩父 × 一-四一四
立野 ×
長保四 一〇〇二 正・一七 秩父 × 前年分 一-四一六
長保五 一〇〇三 正・二一 秩父 × × 前年分 一-四一九
寛弘二 一〇〇五 二・一六 秩父 × 前年分 一-四二三
一二・二八 諸牧 × 一-四二五
立野 ×
寛弘三 一〇〇六 正・一〇 秩父 × 前年分 資一-四二六
寛弘六 一〇〇九 一一・五 秩父 × 一-四二九
寛弘八 一〇一一 一〇・五 秩父 × 一-四三一
長和三 一〇一四 二・三 立野 × 前年分 一-四三四
一二・二八 秩父 × 一-四三五
寛仁元 一〇一七 小野 × 延引 一-四三七
寛仁二 一〇一八 一一・一五 秩父 × 一〇 × 一-四四一
寛仁四 一〇二〇 ウ一二・三〇 立野 × 一-四四三
万寿二 一〇二五 一二・一 秩父 × 一-四五四
万寿四 一〇二七 正・一五 立野 × 前年分 一-四五五
長元元 一〇二八 三・五 秩父 × 遅延により 一-四五六
× 「牧監」を拘留する。
長元三 一〇三〇 二・一三 秩父 × 前年分 一-四五七
立野 × 前年分 一-四五八
長元四 一〇三一 四・三 秩父 × 前年分 一-四六一~四六三
立野 × 逗留 一-四六四
一二・二七 秩父 × 一-四六五
長元五 一〇三二 小野 × 延引 一-四六七
長元七 一〇三四 一一・二一 立野 × × 一-四六九
長暦二 一〇三八 正・二二 秩父 × 前年分 一-四七二
嘉保元 一〇九四 小野 × 延引 一-四九二
遅延:◯=期日 △=一か月以内の遅延 ×=一か月以上の遅延 ?=不明
数 :◯=定数 ×=不足 ?=不明