中央政界と武士団

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一方、平将門の乱において、将門と敵対し、また将門を倒した藤原秀郷・平貞盛・源経基の三人の一族は、その後、それぞれ武門の中心となった。
 これら「つわものの家」は、その進む道において、二つの方向をたどることとなった。一つには、中央との接触を稀薄にしながら辺境の在地社会において領主層を配下に置こうとする、「辺境軍事貴族」への転化であり、平将門の叔父にあたる良文(よしふみ)・良茂(よしもち)の子孫、平貞盛の子維将(これまさ)の子孫、藤原秀郷の子孫などが、これに該当する。いま一つには、京やその周辺に根拠地を置いて朝廷警護の職や摂関家の侍(さむらい)、諸国の受領(ずりょう)などを歴任して貴族としての栄達を目ざす、「中央軍事貴族」への指向であり、源経基の子満仲(みつなか)の子孫や、平貞盛の子維衡(これひら)の子孫などが、これに該当する。

図4―75 平氏系図2

 平将門の乱平定の功によって下野・武蔵両国の守に任じられ、後には鎮守府将軍の地位にのぼった藤原秀郷の子孫は、嫡男千晴(ちはる)が安和二年(九六九)に安和(あんな)の変に連座して流罪に処せられ、中央における活躍の場を奪われたが、千常(ちつね)の流は代々鎮守府将軍を継ぎながら、下野大掾を世襲して国衙内における在庁の中心として勢力を扶植した。その子孫は、のちに下野国の小山(おやま)氏となった。一方、千晴の流からは経清(つねきよ)が出て、その子清衡(きよひら)は奥州藤原氏を興した。

図4―77 秀郷流藤原氏系図

 同じく鎮守府将軍・陸奥守などを歴任した平貞盛の一族は、関東地方各地に土着して、後に坂東八平氏と総称されるようになるが、貞盛の子維衡の流のみは、伊勢国に本拠を置き、藤原道長に臣従するなど、都に活動の場を求めた。やがてこの流から清盛が出ることになる。
 両総・武蔵・相模に土着した平氏諸流は、各地域の開発領主として勢力を伸ばし、一方では国衙の在庁職を保持して、一国、あるいは一郡単位で武士団を形成しはじめた。国香(くにか)流からは北条氏が、良文流からは中村・秩父・千葉・上総氏などが、良茂流からは三浦・大庭(おおば)・梶原・長田(おさだ)氏などが出たが、やがてこれらが源平の内乱期に東国政権樹立に向けて活躍し、鎌倉幕府の有力御家人となる。
 一方、源経基の子孫は、いずれも都の武官と受領を歴任しながら財力を蓄え、摂関家に臣従して奉仕するという道を選んだ。経基嫡男の満仲は、武蔵権守や越前守・常陸介などの受領を歴任したが、安和二年には安和の変の密告者となって摂関家に奉仕した。この密告の背後には、満仲対藤原千晴という、武者としての主導権争いがあった。また、寛和二年(九八六)の花山天皇の出家事件に際しては、満仲・頼光(よりみつ)父子とその郎等たちが、花山天皇の出家を妨げる者がないよう護衛したという。満仲は、摂津国多田荘を経営し、摂津に源氏の地盤を作った。満仲の弟には、武蔵守などを歴任し、道長にしばしば馬を贈って奉仕している満正(みつまさ)と、検非違使として藤原千晴を捕えた満季(みつすえ)がいる。

図4―76 清和源氏系図1

 満仲の三人の子は、頼光が摂津、頼親(よりちか)が大和、頼信(よりのぶ)が河内に、それぞれ勢力を扶植した。
 嫡男の頼光は、春宮坊(とうぐうぼう)の官人や内蔵頭(くらのかみ)のほか、摂津守など各国の受領を歴任して財を蓄え、長和五年(一〇一六)の道長邸の再建に際しては、新邸の家具調度類のすべてを献上して都人の耳目をそばだてた。頼光の武者的な活動といえば、花山天皇の出家や、藤原伊周(これちか)・隆家(たかいえ)の配流に際しての護衛といったところが挙げられるのみであり、後世四天王を従えて大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)を退治する主人公として描かれるといった面影は、史実としては見られない。摂津源氏と呼ばれたその子孫たちも、貴族指向が強く、頼政(よりまさ)をはじめとする歌人を多く輩出することとなった。

図4―78 酒呑童子を襲う源頼光(『大江山絵詞』)

 頼親は、正暦五年(九九四)に京外の群盗の捜索を命じられた「武勇の輩(ともがら)」に挙げられているが、これも基本的には、道長に臣従しながら、大和守に三度任じられるなど、中級貴族としての実態が浮かびあがる。
 さて、頼信も、頼光や頼親と同じく、各国の受領を歴任しながら、藤原実資(さねすけ)に「道長の近習」と称されたように、道長の家人(けにん)として奉仕に努めるという、中級貴族としての生活に明け暮れていた。頼信とその子孫が、他の兄弟の家と決定的に異なる運命をたどることとなった機縁としては、上野・常陸・甲斐など東国の国司、および鎮守府将軍に任じられることによって、坂東に何らかの軍事的基盤を持つことができたということ、そして何より、長元元年(一〇二八)に起こった平忠常の乱を平定したことが考えられる。これらの歴史的条件が、満仲の嫡男ではなかった頼信の子孫が坂東において地盤を構築し、後に武家の棟梁として発展するきっかけとなったのである。