一方、永延元年(九八七)、平繁盛が、自分の書写した金泥(こんでい)の大般若経(だいはんにゃきょう)を比叡山延暦寺に奉納しようとしたところ、武蔵国に移り住んでいた平忠頼と弟の忠光(ただみつ)とが、伴類を率いてこれを妨害しようとしたという史料も存在する(資一―399)。忠頼たちがなぜこの時にこのような行動に出たかは明らかではないが、繁盛が忠頼・忠光のことを「旧敵」と称していることから、これも坂東における在地の支配権をめぐる抗争の一環であろう。なお、右大臣藤原師輔(もろすけ)の家人であった繁盛がこのことを朝廷に訴えたのに対し、忠頼も中央の有力者と私的関係を持っていたらしく、この訴えを退けさせている点が興味深い。
このように、坂東において「つわもの」が成長し、私闘を繰りかえしながら豪族的領主への道を模索していた時、長元元年(一〇二八)に起こったのが、平忠常の乱であった。
忠常は、やはり私営田領主として、上総・下総地方を地盤として豪族的勢力を蓄えていた。かつて長和年間(一〇一二~一七)に、常陸介であった源頼信は忠常に対して奇襲をかけ、忠常に名簿(みょうぶ)(家来の礼を取る旨の名札)と怠状(たいじょう)(謝罪文)を提出させてこれを降していたが、このことが十数年後の忠常の乱において決定的な重みを持つことになる。
長谷元年、忠常は安房守惟忠(これただ)を焼殺し、上総・下総・安房・常陸といった国々において反国衙闘争を開始した。朝廷では、はじめは検非違使の平直方(なおかた)(貞盛の曾孫)を追討使に任じたが、鎮定はできなかった。乱は四年にわたり、もともと二三〇〇〇町あった上総国の水田は、追討使に荒らされ、乱の直後にはわずか一八町に過ぎないほど荒廃してしまったという。このことは、忠常がこのような地方を基盤にしても、逆に権力の維持は困難になってしまっていたことを物語る。図らずも私営田経営の危機に直面してしまった忠常は、私営田内部に成長した中小在地領主の「共通の利害」を代弁するかたちで、乾坤一擲の反国家闘争を続けざるを得なくなったわけであり、「名誉ある敗北」の機会を窺っていた状況であったものと思われる。
そのような事情とは関わりなく、長元二年、朝廷は追討使の任を解き、源頼信を甲斐守に任じ、長元三年には頼信をはじめとする坂東諸国司に忠常追討の命を下した。長元四年、頼信は追討の兵を挙げようとしたが、そのことを知った忠常は、甲斐国に頼信を訪ね、そのまま降伏してしまった。
忠常は、頼信に伴われて上京する途上で病を得て死去し、この乱もあっけなく終わってしまうが、この戦乱の結果は、二つの点で大きな意義を持つものであった。一つには、国司の苛政に苦しむ在地勢力の信望をにない、国衙に反抗することによってその利害を貫こうとした辺境軍事貴族の自立化への道が、この戦乱の終息を機会に終焉してしまったということである。そしていま一つには、この戦乱を戦わずして終結させた源頼信に対する在地領主の輿望が高まり、清和源氏が坂東の地に勢力基盤を構築する端緒となったということである。頼信とその子孫が、辺境軍事貴族や在地勢力の利害を代弁する存在として、それらの軍事力や経済力を自己の麾下に置くことが、この時以来始まったのであり、その意味では、武家の棟梁化の第一歩と位置づけることができよう。
図4―79 武士の館(『一遍上人絵伝』)