知行国制の成立

521 ~ 523
院政期に入ると、受領の任用と国務の運営に関する新たな方式として、いわゆる知行国(ちぎょうこく)制が広まっていった。知行国とは、受領の地位にともなう利権を、公卿などの高官に対する処遇の一つとして分配するための方策であり、受領の地位が中央の貴族たちにとって経済的な権益と意識されるようになったところに生じたものといえる。知行国の存在は、十一世紀前期にすでに知られ、この頃から、公卿らが自分の子弟を国守に任命してもらうことによって、その国の国務を差配する実権を握り、受領としての利得を一家の経済に取り入れる仕組みが生まれたらしい。このようにしてある国を知行する権限を得た高官は知行国主と呼ばれる。知行国主の申請によって名目上の国守となるのは、多くは知行国主の子弟であり、近親者やあるいは信頼できる部下などを国守とする場合もあった。この知行国は先に見た院宮分国と混乱しやすいが、本来、院宮分国は、その国から朝廷に納められるべき諸貢納物が分国主のもとに入る制度であり、知行国は、そうした貢納以外で受領の実入りとなる利得を知行国主のものとする仕組みである。ただ、後になると知行国と院宮分国の区別は薄れていった。
 知行国は公式の制度として始められたものではなく、いわば受領人事に関する運用の結果が新しい意味をもつようになって生じたかたちであった。このため、史料上に知行国の存在が明記されることは少なく、いつ、どの国が、誰の知行国であったかはなかなかわかりにくい。ただ、知行国制が本格的に展開するのは、院政の確立と密接に関係している。院政をしいた白河以降の各上皇は、廷臣への経済的処遇として知行国の分配を積極的に行ない、権力を支える手段として利用した。十二世紀前期には、しかるべき公卿には知行国が与えられる慣例が成立し、摂関家の知行国も見られはじめるが、知行国の分配を受ける中心となったのは院の近臣たちであった。公卿や摂関の知行国にしても、いわば彼らが院の近臣としての立場にあるがゆえに得られるものであった。
 武蔵国では、康和五年(一一〇三)に、中納言源雅俊(まさとし)が知行国主となり、息子の顕俊(あきとし)が武蔵守に任命された(資一―510・511)。雅俊は白河上皇の近臣でもあった。顕俊の武蔵守任命は、尊勝寺の中堂と食堂(じきどう)の造営費用をまかなうことを条件としたものであったが、実際にこれを実行するのは父親の雅俊であった。また顕俊の任期中の嘉承元年(一一〇六)に、春日祭の費用が武蔵国に課されることがあったが、これを実際に負担したのは雅俊であり(『中右記』)、知行国主の雅俊が国務の差配を行っていたことが知られる。顕俊は、その後武蔵守を重任しているから(資一―515)、雅俊は受領任期の二期八年間にわたり武蔵国を知行したのであろう。
 平安時代の最末期、平氏政権の時期になると、平氏一門は次々に知行国を増やしていった。平治の乱の後には平氏の知行国は八か国に及び、特に東海道の伊賀・尾張・遠江・武蔵・常陸五か国を押さえていることは、平治の乱後の軍事情勢への対応という意味あいが感じられる。このとき武蔵守となったのは平清盛の四男知盛(とももり)である。知盛は当時わずかに十歳であるから、知行国主は父親の清盛であったと思われる。知盛はその後二期八年間武蔵守の地位にあり、仁安二年(一一六七)に離任し、代わって平知重(ともしげ)が武蔵守に任じている。武蔵国が平氏の知行国である状態はこの後も継続したもようであり、以後は知盛が知行国主となっていたのかもしれない。