院政期の武蔵守

523 ~ 526
院政期の武蔵守では、菅原是綱(これつな)の治績がまず注目される。是綱は、大学頭・文章博士を歴任した学者として著名であった。関白藤原師通(もろみち)と交流のあったことが知られ、また常陸国に受領として赴任したさいに藤原氏とつながりの強い鹿島社の修理を実施していることなどから、摂関家と関係の深い人物と見られる。是綱は、二期八年間にわたり武蔵守を務め、数十年分の公文(くもん)を完済するという功績をあげた(資一―494)。ここで言う公文とは、毎年の貢納物や正税等の決算報告書であり、定められた額の貢納物や正税を弁済したことを証明しないと、中央の諸官司にこの報告書を提出し、受け取ってもらうことができなかった。本来、受領は、任期中の公文を提出し受け取ってもらってはじめて、受領としての全責任を果たしたことになる。しかし、公文完済にはかなりやっかいな手続と時間が必要であり、実際には任期中の公文完済の手続が終了する以前に任を離れてしまうこともあって、公文は未済のまま放置されることが多かった。是綱は、この当時の武蔵国が、治安上の問題などから歳入が不安定で歳出が多く、亡国と称されるような状況であることを強く主張し、その結果、国内が長期にわたって亡弊していることを理由にまず重任(ちょうにん)を認めてもらい、そのうえで武蔵国に関しては四年の任期のうちの二年分の賦役や調庸の貢納が免除される例を導入することに成功した(資一―480)。その後、是綱は、未済のまま放置されていた武蔵国の公文の完済に意を注ぎ、自分の任期以前の未済分まで含めて数十年分の公文を一挙に完済したのである。公文完済の例が見られなくなっているなかで、これは大きな功績として評価されたことであろう。ただ、是綱が実際に負担した支出がどれほどであったかは不明である。あるいは、四年のうち二年分の調庸等の免除をさかのぼって適用することで、必要な貢納量自体を目減りさせ、いわばこうした帳簿操作によって多年にわたる公文の完済を実現させたのかもしれない。
 同じく藤原成実(しげざね)も、二期八年の任期中の公文完済を果たし、亡国における殊功と評価されている(資一―507)。これは、是綱から始まった武蔵国の一部貢納の免除の恩恵に浴した結果可能となったことかもしれない。成実は、藤原師通の子の忠実(ただざね)家の家司として忠実の日記『殿暦(でんりゃく)』にもしばしば登場する人物であり、武蔵守在任中にも忠実に馬を献上したり、実際に忠実に付き従って各種の行事に奉仕している。忠実が堀河天皇の摂政・関白となったころからは、忠実家の家政機関である政所(まんどころ)の中の侍所(さむらいどころ)別当をまかされている。成実に関しては、新任の武蔵守となった時に、前任の武蔵守藤原長賢(ながかた)と交代をめぐる争いを引き起こしており、前任の受領と後任の受領の利害が衝突して発生する紛議の具体的事例として注目される。受領の交替時には、前任・後任の間で引き継ぎが行われ、前任者が前々任から引き継いだ内容が維持されているかどうか、不足しているものがあればしかるべき方法で補填されているか、必要な修理がなされているか、各種の貢納が済まされているか、といったことがチェックされる。前任者は、できるだけ自分の責任を回避し、自己負担分を減らすことが利益になるし、後任者は、書類に残る引継資産はなるべく少なくし、実際に手にする資産はできるだけ多い方が得になる。しかし、前任者の任期中に税の未収や貢納の未進が生じることはままあることであったし、継続的に収入・支出が生じる国衙財政をある時点で切り分けて前任・後任の責任範囲を定めることには、そもそもかなりの困難がともなった。新任の成実と前任の長賢との争論の種となったのは、武蔵国が負担することになっていた伊勢神宮の大垣築造のための役夫を雇用する経費を、前任者・後任者のどちらが支払うかという問題であった。争論の詳しい内容はわからないが、新任の成実にすれば、経費の支払を受け入れた前任者が負担すべきであるということになろうし、前任の長賢にすれば、実際に工事が行われる時点の武蔵守である後任者が経費を支出すべきであると考えたのかもしれない。いずれにせよ、どちらの主張が是か非か一概に決し難い点があったらしく、争論が決着するまで一年以上かかっている。
 是綱・成実のほか、摂関家とのつながりをうかがわれる武蔵守としては、高階経敏(つねとし)がいる。経敏は、忠実の娘泰子が鳥羽天皇の大嘗会(だいじょうえ)の女御代(にょうごだい)となった際に、行列の前駈を務めており、忠実家に奉仕していたものであろう。ただ十二世紀の二十年代ころになると、いわゆる摂関家家司受領の数は減少し、院の政治力が摂関家のそれを凌駕しつつあることが、武蔵守の任命状況からもうかがわれる。経敏の次の武蔵守藤原行実(ゆきざね)は、白河上皇の院司として従四位上に叙された人物であり、堀河天皇の御願寺尊勝寺造営の功により武蔵守となった。また、一時武蔵国の知行国主となった源雅俊も白河院の近臣であった。藤原信頼(のぶより)も、後白河院の院別当として権勢を振るい、平治の乱を引き起こして敗死した人物である。
表4―24 平安後期の武蔵守
氏名 任期 備考 出典
菅原是綱 永保元(1081)~寛治2?(1088) 大学頭。文章博士。常陸介(受領)。 資1―479・480・494
源業房 寛治5?(1091) 資1―489
藤原長賢 寛治5(1091)~嘉保元(1094) 資1―485・499
藤原成実 嘉保2(1095)~康和4(1102) 藤原忠実の家司。同侍所別当。 資1―493・495~500・507・513
藤原行実 康和5(1103) 白河院司。 資1―508
源顕俊 康和5(1103)~嘉承2(1107)~ 中納言雅俊(白河院の近臣、知行国主か)の子。 資1―510・511・515
高階経敏 天永3(1112)~元永2(1119) 摂関家の家司か。 資1―524・528
藤原通基 ~大治元(1126) 資1―532
藤原公信 大治2(1127)~長承元(1132)~ 資1―532・534・536
藤原季行 ~久安5(1149) 資1―544
藤原信頼 久安6(1150)~保元2(1157) 参議。權中納言。後白河院別当。 資1―544・546 公卿補任
平知盛 永暦元(1160)~仁安2(1167) 平清盛の子。参議。權中納言。(平氏知行国) 資1―560・566 公卿補任
平知重 仁安2(1167)~ (平氏知行国) 公卿補任