同じく藤原成実(しげざね)も、二期八年の任期中の公文完済を果たし、亡国における殊功と評価されている(資一―507)。これは、是綱から始まった武蔵国の一部貢納の免除の恩恵に浴した結果可能となったことかもしれない。成実は、藤原師通の子の忠実(ただざね)家の家司として忠実の日記『殿暦(でんりゃく)』にもしばしば登場する人物であり、武蔵守在任中にも忠実に馬を献上したり、実際に忠実に付き従って各種の行事に奉仕している。忠実が堀河天皇の摂政・関白となったころからは、忠実家の家政機関である政所(まんどころ)の中の侍所(さむらいどころ)別当をまかされている。成実に関しては、新任の武蔵守となった時に、前任の武蔵守藤原長賢(ながかた)と交代をめぐる争いを引き起こしており、前任の受領と後任の受領の利害が衝突して発生する紛議の具体的事例として注目される。受領の交替時には、前任・後任の間で引き継ぎが行われ、前任者が前々任から引き継いだ内容が維持されているかどうか、不足しているものがあればしかるべき方法で補填されているか、必要な修理がなされているか、各種の貢納が済まされているか、といったことがチェックされる。前任者は、できるだけ自分の責任を回避し、自己負担分を減らすことが利益になるし、後任者は、書類に残る引継資産はなるべく少なくし、実際に手にする資産はできるだけ多い方が得になる。しかし、前任者の任期中に税の未収や貢納の未進が生じることはままあることであったし、継続的に収入・支出が生じる国衙財政をある時点で切り分けて前任・後任の責任範囲を定めることには、そもそもかなりの困難がともなった。新任の成実と前任の長賢との争論の種となったのは、武蔵国が負担することになっていた伊勢神宮の大垣築造のための役夫を雇用する経費を、前任者・後任者のどちらが支払うかという問題であった。争論の詳しい内容はわからないが、新任の成実にすれば、経費の支払を受け入れた前任者が負担すべきであるということになろうし、前任の長賢にすれば、実際に工事が行われる時点の武蔵守である後任者が経費を支出すべきであると考えたのかもしれない。いずれにせよ、どちらの主張が是か非か一概に決し難い点があったらしく、争論が決着するまで一年以上かかっている。
是綱・成実のほか、摂関家とのつながりをうかがわれる武蔵守としては、高階経敏(つねとし)がいる。経敏は、忠実の娘泰子が鳥羽天皇の大嘗会(だいじょうえ)の女御代(にょうごだい)となった際に、行列の前駈を務めており、忠実家に奉仕していたものであろう。ただ十二世紀の二十年代ころになると、いわゆる摂関家家司受領の数は減少し、院の政治力が摂関家のそれを凌駕しつつあることが、武蔵守の任命状況からもうかがわれる。経敏の次の武蔵守藤原行実(ゆきざね)は、白河上皇の院司として従四位上に叙された人物であり、堀河天皇の御願寺尊勝寺造営の功により武蔵守となった。また、一時武蔵国の知行国主となった源雅俊も白河院の近臣であった。藤原信頼(のぶより)も、後白河院の院別当として権勢を振るい、平治の乱を引き起こして敗死した人物である。
氏名 | 任期 | 備考 | 出典 |
菅原是綱 | 永保元(1081)~寛治2?(1088) | 大学頭。文章博士。常陸介(受領)。 | 資1―479・480・494 |
源業房 | 寛治5?(1091) | 資1―489 | |
藤原長賢 | 寛治5(1091)~嘉保元(1094) | 資1―485・499 | |
藤原成実 | 嘉保2(1095)~康和4(1102) | 藤原忠実の家司。同侍所別当。 | 資1―493・495~500・507・513 |
藤原行実 | 康和5(1103) | 白河院司。 | 資1―508 |
源顕俊 | 康和5(1103)~嘉承2(1107)~ | 中納言雅俊(白河院の近臣、知行国主か)の子。 | 資1―510・511・515 |
高階経敏 | 天永3(1112)~元永2(1119) | 摂関家の家司か。 | 資1―524・528 |
藤原通基 | ~大治元(1126) | 資1―532 | |
藤原公信 | 大治2(1127)~長承元(1132)~ | 資1―532・534・536 | |
藤原季行 | ~久安5(1149) | 資1―544 | |
藤原信頼 | 久安6(1150)~保元2(1157) | 参議。權中納言。後白河院別当。 | 資1―544・546 公卿補任 |
平知盛 | 永暦元(1160)~仁安2(1167) | 平清盛の子。参議。權中納言。(平氏知行国) | 資1―560・566 公卿補任 |
平知重 | 仁安2(1167)~ | (平氏知行国) | 公卿補任 |