武蔵七党

526 ~ 528
十一世紀から十二世紀にかけて、関東地方には武士団が広汎に成立した。これらの武士団の系譜は、大まかにいって、藤原氏・桓武平氏・清和源氏など中央貴族の流れを汲み、数郡を勢力圏においた豪族的領主層と、郡司や在庁官人、荘官、牧の管理者などから成長した開発領主層という二種に分類できる。
 ところが武蔵国においては、東関東のような大規模な開発が行われておらず、広大な武蔵野の原野が未開発のまま放置されており、わずかに関東山地の山麓において小規模な開拓が行われていたに過ぎないという背景と、勅旨牧および中央の権門の荘園が多かったという事情によって、国全体を支配するような強大な武士団は出現しなかった。
 のちに坂東八平氏と呼ばれるようになる桓武平氏系の武士団(上総・三浦・梶原などの諸流)のなかでも、武蔵国においては、わずかに秩父一門が、河越(かわごえ)・畠山・榛谷(はんや)・江戸・豊島・葛西(かさい)・足立・小山田・稲毛・渋谷などの諸氏に分かれ、各氏が自立しながら割拠していたという状況であった。なおこれらのうち、小山田氏は、代々秩父牧の管理者であった畠山氏の有重(ありしげ)が、多磨郡小山田(町田市北部から多摩市南部一帯)の丘陵地帯に馬牧を営み、谷戸の開墾を進めることによって成立したものである。
 一方武蔵国には、後に武蔵七党と呼ばれることになる、小所領の直営者(名主)の党的な結合体である中小武士団が成長していた。七党の数え方は一定せず、「武蔵七党系図」では、横山・猪俣(いのまた)・野与(のよ)・村山・西・児玉・丹(たん)の諸党を七党としているが、野与党の代わりに私市(きさいち)党を挙げたり、村山党の代わりに都筑(つづき)(綴)党を挙げたりすることもある。
 関東武士の「党」という語が史料にはじめて登場するのは、『長秋記』の天永四年(一一一三)三月四日条に、「坂東横山党」が追討をうけていることが見える記事である(資一―526)。このころまでには、武士団の党的な結合が成立していたのであろう。
 さて、それぞれの党について簡単に説明しよう。横山党は、小野篁(おののたかむら)の後裔を称する。篁七代の孫の高泰(たかやす)が武蔵守、その子義孝(よしたか)が武蔵権介となり、義孝が横山(八王子市から多摩市にかけての多摩丘陵)を本拠にして土着し、横山党の祖となったと伝える。多摩丘陵一帯から、相模・甲斐へ、また一系は北武蔵へと勢力を伸ばした。
 猪俣党は、横山党の同族。義孝の弟時資(ときすけ)が武蔵介となり、猪俣(埼玉県児玉郡美里町)に土着したのが始まりと伝える。北武蔵の児玉・大里・比企郡から、上野・下野国にかけて進出した。
 野与党は、桓武平氏の良文の子孫を称する。平忠常の曾孫基永(もとなが)(胤宗(たねむね)ともいう)が、埼玉郡の野与荘を本拠にしたことに始まると伝える。埼玉・足立・比企郡から、一部は上野・下総国へも進出した。
 村山党は、野与党の同族。基永の弟頼任(よりとう)が、入間郡と多磨郡にまたがる村山(狭山丘陵)を本拠にしたことに始まる。入間郡内に勢力を有した。
 西党は、大化前代の伴造(とものみやつこ)系の氏族である日奉(ひまつり)氏の子孫を称する。日奉宗頼(むねより)が武蔵守となった後、その子孫が多磨郡の由比(ゆい)・小川牧を管理し、在庁官人も輩出した。国府の西の多摩川沿岸を本拠地とし、多摩川流域から橘樹(たちばな)・都筑郡にかけて勢力を伸ばした。
 児玉党は、丈部(はせつかべ)氏の子孫の有道(ありみち)氏から出たと称する。維能(これよし)が武蔵介となって児玉郡を開墾し、その子維行(これゆき)が武蔵守となって任果てた後、父の故地である児玉郡に土着して児玉氏を称したという。児玉郡を中心に、秩父・大里郡から、上野国の一部にも進出した。
 丹党は、皇親氏族の丹比(たじひ)氏の子孫と称する。丹治峯時(みねとき)が秩父郡石田牧の別当となり、牧の経営を通じて台頭した在庁級領主である。秩父郡から、児玉・入間郡に勢力を有した。
 私市党は、大化前代の私市部の伴造を祖先とすると称する。牟自(むじ)という者の子孫が私市部領使となり、私市家盛(いえもり)が武蔵権守になったという。埼玉郡騎西付近を本拠地とした在庁官人級領主である。埼玉・男衾(おぶすま)郡に分布する。熊谷直実(くまがいなおざね)も、丹治氏出身で私市党成木氏の婿となった私市党の一員であった。
 都筑(綴)党は、平氏の子孫を称する。立野牧の経営を通じて勢力を伸ばした在地領主で、都筑郡に分布した。
 以上のような中小武士団は、多くが牧の管理を行いながら、在庁官人を兼ね、開発を行っているところに特色がある。丘陵地帯に武士団が発生したのも、この事情によるものである。やがてこれらの上に、さらに広い地域を勢力範囲とする豪族的領主の力が覆いかぶさってくることになる。