図4―85 平安時代の相撲人(『平安朝相撲人絵巻』)
寛治五年(一〇九一)八月、内大臣で左近衛大将であった藤原師通(もろみち)は、当時の武蔵守であったと思われる源業房(なりふさ)に「相撲教書」という形の通達を発している(資一―489)。通達の具体的な内容は判然としないが、前月の閏七月に、小野友高という相撲人が自分の郷里でおきた事件について師通に訴え出ているので(資一―488)、この「相撲教書」は小野友高の訴えと関係するものと思われる。このことから、小野友高は武蔵国から出仕した相撲人であった可能性がある。小野氏は、小野牧の別当を務め、武蔵七党のうちの横山党と称する武士団を形成した武蔵国の名族の一つである。友高はこの小野一族の出身者であったかもしれない。
友高は、この年の七月に行われた相撲節に出場した。相撲節では、相撲人は左方と右方とに分かれ、双方から一人ずつが出て二〇番ほどの取り組みを行い、勝った取り組みの多寡が左右で競われる。結びの一番は双方の最強の相撲人である最手(ほて)同士の取り組みであり、その前に、最手に次ぐ地位である脇(わき)(助手)同士の取り組みが行われる。友高は、左方の脇としてこの年の相撲召合における取り組みに勝ち、左方を主宰する左近衛大将の師通から特に褒賞を受けている(資―487)。後日になって、白河上皇のもとに左右各一〇人の相撲人が召し出され、布引(ぬのひき)の相撲を披露した。布引相撲は、布の反物の端と端とを持って引っ張りあう力試しであり、勝ったほうがその布などを賞品として得た。友高もこの布引に出場したが、「所労」によりわざと力を出さずに負けたという(資一―486)。この「所労」は友高の訴え出た事件と関係しているようであり、友高が本気を出さなかったのは、事件の取り扱いに対する不満の表明ではないかと思われる。
このころの相撲人は、武士団の棟梁に仕える郎等(ろうどう)や、中央貴族の家人(けにん)、国衙の在庁、一宮社家、郡司といった階層の出身で、郷里では武士身分として国衙に登録されるような家系に属する者たちであった。相撲人として代々世襲される家系も発生しつつあった。国家的儀礼に出場する相撲人には一定の特権も付随していた。最手・脇などは朝廷から任命される地位であり、住国(郷里)に数十町規模の免田の保有が認められる慣例であった。相撲人として出仕したことを契機に、都の上流貴族の援助を受けて郷里の在庁官人や郡司などの地位を得ることも多かった。また、免田に対して国司が課税してくると、相撲人としての出仕先である近衛府(このえふ)を通じて朝廷に国司の不当を訴え出る例も知られている。
小野友高が、自分の属する左方の相撲を主宰する左近衛大将藤原師通に訴え出た内容も、郷里における自分の免田に対する国司の不当課税に関する事件であったと推測される。訴えの中で友高は、脇の地位にある者としての面目が失われたとして、相撲人の罷免を願い出るなど強硬な姿勢を示している。この事件の決着がどうなったかは不明であるが、源業房は師通からの通達の履行を渋っているように見える。その後、師通は友高の訴えを検非違使(けびいし)に取り次ごうとしているが、あまり迅速な処理がなされていないようである。翌寛治六年の相撲節の番付から小野友高がはずされていることから見ると、その時に至っても友高の言い分は認められなかったのかもしれない。
武蔵国出身の相撲人としては、天永二年(一一一一)の相撲節に出場した伴国末(とものくにすえ)(字(あざな)目黒丸)、服(伊福部(いふきべ))常方が知られる(資一―517~520)。保元三年(一一五八)には、出身地の記載はないが小野元員(もとかず)という小野姓の相撲人が出場している(『兵範記』等)。この年と承安四年(一一七四)に最手として見える藤井(藤原)正家のことを武蔵国の出身と記す史料もある(『醍醐雑事記』)。朝廷の儀式としての相撲節は、この承安四年を最後に廃絶するが、相撲自体は、中世以降も武士の芸能として隆盛する。