今まで述べてきたように、十二世紀の関東地方は、新興の在地の勢力が台頭し、激しい時代の移り変わりの様相を示していた。在地の有力者は、在庁官人というかたちで国庁に勤務して地方行政の実権を握り、また摂関家などへ荘園を寄進することにより、その地位の保全をはかった。これらの有力者はそれぞれ武力を有し、源氏を棟梁とする武士団に編成されていった。
このような動きは、日本全体の社会の動きと相関連していた。籍帳によって人民一人一人を把握し、貢納物を徴発していた律令制の支配は、九世紀から十世紀にかけて崩壊し、かわって耕作地を単位として租税や労役を徴発する、新しい体制が形成された。十二世紀に入ると、在地の有力者による荘園の寄進が増大し、院や、摂関家などの上級貴族は、莫大な荘園の領主となり、、また知行国主として国衙の機構を介して公領の収入をも手中に収め、旧来の古代国家の皇族や貴族とは異なった風貌を呈するようになった。
この時期、京都の朝廷の政治の形態も大きく変化し、藤原氏による摂関政治に替わって、十一世紀の終わりには院政が成立し、上皇による専制的な政治が行われた。この間、荘園の支配や伝領をめぐって、皇族や貴族、寺社などの諸勢力の対立が激しくなり、そうした対立を解決するものとして、武者の力が重視されるようになった。院政のもとで台頭した平氏は、やがて保元元年(一一五六)の保元の乱、三年後の平治の乱を経て権力を握ったが、諸勢力の反発のなかでその地位を保持しえず、文治元年(一一八五)、源氏によって滅ぼされた。
治承四年(一一八〇)の源頼朝の挙兵と、鎌倉幕府の成立とによって、東国の歴史は大きく転換した。そしてこれ以後の多摩市域の歴史も、より地域に即した、具体的な姿として描かれることになる。