多摩川は武蔵野台地とともに多摩地区の代表的な地形的要素をなす。多摩川は流域に棲む人々に水の供給・水産資源の供給・水上交通の場などの恩恵を与えるとともに、対岸への交通の障壁となっていることにはじまり、水害をもたらすマイナスの面も持ち合せている。残念ながら中世における多摩川の姿を我々に示す史料は極めて乏しいが、まずは多摩市域と多摩川との関わりを概観する。
中世の多摩川は立川市青柳の東端辺りから広々とした河川敷を形成し、流路を網目状に分岐させながら流れたと考えられる。この痕跡は国立市・府中市の多摩川低地上に断片的な帯状の凹地として認められるが、この網状流路の中世における主流路は、現在の流路より北側のルートを流れていたとされている(菊池一九六六、深沢一九九四など)。このような地形は、支流からの取水を容易にする一方、氾濫を受けやすく、土壌も砂礫が多く混ざり農耕にはプラスとマイナスの面を持ち合せていた。
また、現在の多摩市域に流れる多摩川は河床が浅く通常の水量も少ないが、これは近世の玉川上水に代表される取水施設の整備や、小河内ダムの建設などによる影響による部分が多いと考えられ、一般に中世における多摩川の水量は現在より多かったと推測されよう。
次に多摩市内の多摩丘陵は、多摩・ニュータウンの開発により人工平坦化が進んでいるが、ニュータウン開発以前は一般に急勾配の斜面が多く見られる複雑な地形であった。その中で南西から北東に流れ多摩川に合流する大栗川と乞田川が中心的な浸食谷を形成し、それに流れ込むようなかたちで谷戸と呼ばれる小支谷が樹枝状に数多く発達して起伏に富んだ複雑な地形を特徴とする。
このような多摩丘陵内では、発掘報告や近世の絵図等を参考にすると樹枝状の支谷の縁に点在するように住居を構え、支谷の中に谷戸田や畠を作り、丘陵の林産資源を活用して生活を営んでいたものと考えられる。また、大栗川右岸の丘陵斜面は他の地区に比べて比較的なだらかで、水の影響を受けにくい安定した土地で古墳時代の古墳も数多く残されていた。反面、河川からの水の供給が受けにくく、畠作優位の耕作が行われていたと考えられる。
菊池山哉「分倍河原の古戦場に就いて」『府中市史史料集』一一、一九六六年
深沢靖幸「武蔵府中定光寺とその周辺」『府中郷土の森研究紀要』五、一九九二年
深沢靖幸「武蔵府中三千人塚遺跡の再検討」『府中郷土の森研究紀要』七、一九九四年