中世多摩市域における生産活動

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ここでは、多摩市域がおかれた自然地理的状況と人文地理的状況を加味して、中世における多摩市域内の生産活動の有様を概観する。
 多摩市内の丘陵地帯は、多摩ニュータウン開発に伴う発掘調査で縄文時代以降の人々の生活痕跡が明らかにされている。古代末期には丘陵内の小支谷に一~数軒規模の集落が点在し、畠と水田を中心に耕作活動を行っていたものと考えられている(鶴間一九八六)。しかし、稲作における水の供給は主に丘陵斜面からの天水にたよらざるを得ず、しかも地下水位が浅いため乾田化が容易ではなく、摘田(つみた)耕作が主体で生産性は低かったと考えられる(藁谷一九九三)。また、府中という消費地が近在するため丘陵内の森林を用いて、建築資材・木器・木炭の生産や窯業による生活雑器等の生産にも従っていたものと考えられる。
 多摩郡は、小野牧を代表とする馬の生産地でもあり、府中の六所宮(大国魂神社)では近世まで馬市が開かれていた。丘陵地内では谷口を封鎖することにより牧の設営が容易であるため、多摩市内でも馬の生産が行われていた可能性がある。
 低地部に目を移すと古代末には、気候の温暖化と河床の深化による段丘の安定化により氾濫原の大規模開発が可能となり、多摩川流域では稲毛荘の開発に代表されるような中世的荘郷の開発が進んだ。多摩市域でも吉富郷の設置は、このような流れの中で進められたものであろう。
  鶴間正昭「古代末期の丘陵地域開発について」『東京都埋蔵文化センター研究論集』Ⅳ、一九八六年

  藁谷哲也「多摩市の地形と地質」『多摩市史叢書(8)多摩市の自然』一九九三年


図5―2 TNT No.243、339遺跡捥未製品等出土状態
東京都町田市小山。8~10世紀の遺跡だが、中世の多摩市域においても同様の生産が行なわれていたものと考えられる。