荘郷の開発

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十二世紀の大開墾の時代を通じて、地域社会では行政単位の再編がすすみ、中世に繋がる荘郷などのあらたな所領単位が生まれていった。多摩郡はほぼ多摩川を境として多西郡と多東郡とに分割され、多摩川を挟んで国衙に隣接する多摩市周辺には吉富郷・土淵郷・得恒郷など国衙領としての中世的郷が生まれた。諸権門の所領である荘園では十二世紀半ばごろには古代以来馬牧が設営されてきた丘陵部に船木田荘が成立し、多摩川流域の氾濫原には稲毛荘が成立した。鎌倉幕府成立の原動力となり、幕府成立後は御家人として幕府を支えていったのは、こうした荘郷の開発を進め、開発領主として所領支配を実現していった武士たちである。彼らの多くは在庁官人や郡司・郷司などの職を帯びていた。武蔵国にはいわゆる武蔵七党と呼ばれる中小規模の同族武士団が群居したが、多摩市周辺では小野郷・小野牧の経営・開発を通じて成長していった横山党、日野台地周辺に基盤をもつ西党などが蟠居した。武蔵国最大の勢力をもった秩父氏の一族も、国衙有力在庁としての立場を背景として国衙周辺地域に勢力を伸ばしていた。