小野姓横山党

548 ~ 551
横山党は小野氏系図によると漢詩文にすぐれた文人として有名な小野篁(たかむら)(八〇二~八五二)に系譜を引く小野姓の同族武士団で、武蔵守隆泰の子義隆が横山に住み横山大夫を称したのにはじまる。中央貴族の小野氏は九世紀初頭から中葉に陸奥守や鎮守府将軍として奥州と関係を持ち、藤原純友の乱の追捕使(ついぶし)となった好古を輩出するなど「累代の将家」と呼ばれるような家柄として知られる。東国武士団の多くが桓武平氏や魚名流藤原氏など軍事貴族を祖としていたのと同様に、小野氏の場合も中央貴族小野氏が在地氏族との婚姻などを通じて土着していったものと捉らえることができるかもしれない。宮内庁書陵部蔵『伊勢物語抄』にある武蔵守として多年任国に赴任し「我むさしの国にてはてなん」と思いつつ都で死んでしまったという武蔵守小野美作吾の伝承は、中央貴族の土着化を物語る興味深い伝承である(小野一九九五)。しかし後世に作られた系図や伝承についてはその作為性も考慮に入れる必要があろう。小野郷の地名は八世紀から見られており、小野氏が中央貴族小野氏の系譜を引くとすれば、姓と地名との一致は偶然ということになる。また承平元年(九三一)小野牧が勅旨牧となったとき牧別当に任じられた散位小野諸興やその弟永興などの名は系図には見られない。これについては諸興を康平五年(一〇六二)前九年の役に従軍した経兼の曾祖父隆泰に比定し、平将門の伯父国香が初名を良望といったように、諸興を経兼の別名ではないかとする見解も出されている(高島一九八八)。義隆の子資隆は野別当を称しており、横山氏が小野牧別当の系譜を引き、小野牧の経営・開発を通じて成長していった氏族であることはほぼ確実であるが、小野諸興ら「興」を通字とする小野氏が篁系の小野氏とは別系とする見解もあって(町田一九九三)、この系統の小野氏が系譜的に篁系の小野氏と繋がるかどうかは今のところ不明である。

図5―3 多摩市の周辺の荘郷


図5―4 小野氏略系図

 小野氏の一族は、小野郷・横山荘周辺を中心に武蔵全域、相模東部相模川沿いや甲斐国まで分布したが、特に小野牧などの武蔵諸牧から京都へ運んだ貢馬のルート沿い(小倉・田名・荻野・海老名・糟屋・愛甲)、甲州街道沿いの古郡(ふるごおり)(山梨県北都留郡上野原町)や、猪俣(いのまた)(桧前(ひのくま)牧)、平子・石川(石川牧)などの官牧周辺に分布するなど、馬・陸上交通との深い関係がうかがわれる。また系図では時重・時広の代に武蔵や相模の武士と広く婚姻関係を結んだことが知られるが、系図のなかには海老名氏のように婚姻関係を通じて一族にとりこまれた氏族もあった(菱沼一九九三)。
 小野氏の本宗横山氏は小野牧の開発をすすめてこれを荘園化し、時重・時広のころから権守として国衙在庁官人となったとみられる。横山荘については若干の史料や『新編武蔵国風土記稿』などから荘域が推測されるに過ぎないが、その多くは船木田荘(特に新荘)と重複が見られることから、船木田荘と横山荘は同一荘園の別称で、荘園領主側が船木田荘の名前を使用したのに対して地元や幕府では横山荘が通用していたものと考えられる(峰岸一九九四、太田一九九六)。
  太田浩司「地名―動態的地名学事始―」『歴史手帖』二四―五、一九九六年

  小野一之「古代多摩郡の郷の分布と開発」『歴史手帖』二三―一〇、一九九五年

  高島緑雄「古代から中世へ」『日野市史』通史編一第六章、一九八八年

  菱沼一憲「中世海老名氏について――その出自と成立の契機」『えびなの歴史』五、一九九三年

  町田有弘「牧別当に関する一考察」『白山史学』二九、一九九三年

  峰岸純夫「日野市域の荘園と公領」『日野市史』通史編二(上)第一章第二節、一九九四年