秩父重弘の三男有重が多摩郡小山田を名字の地とし、さらにその子孫が稲毛・小沢など国衙周辺地域に発展していったのも、秩父氏のこうした国衙における立場を背景としたものであったであろう。有重は小山田別当を称していることから小山田牧の別当であったと考えられているが(町田市一九八四)、小野牧や由井牧が荘園化していったように、小山田の地ものちに小山田保あるいは小山田荘としてあらわれる。保とは十一世紀末ころから諸国で見られるようになる国衙領の徴税単位のひとつで、権門や官司への封戸の納物など国衙が負っている諸負担を、特定の地域・田畠や開発予定地に転嫁することによって成立した。小山田保の場合史料上の初見は南北朝期になってからであり、その成立時期を確定することは困難であるが、国衙との関係から有重のころに保として成立したことは十分考えられることである。
有重の子重成は橘樹郡稲毛荘を本拠とし稲毛を称した。また小沢郷を所領としていたことも知られ、その子重政は小沢を称している。稲毛荘は十二世紀半ば平治元年(一一五九)には摂関家領荘園として成立しており、すでに二〇六町余の大規模な開発がすすんでいた。開発領主については不明であるが、長寛二年(一一六四)に稲毛荘の押領を訴えた大江某という人物がこの時の下司であったと推測され(『人車記』仁安二年秋巻裏文書)、稲毛重成が稲毛荘の下司(地頭)となったのはこれ以後のことと思われる。日奉氏の一族にも源平争乱のころ稲毛、小沢郷内の細山(神奈川県川崎市多摩区)を名乗る人物があり、国衙に比較的近接するこの地域にも平姓秩父氏に先んじて在庁官人日奉氏の勢力が及んでいたようである。
町田市史編纂委員会『町田市史』上巻、一九八四年
図5―5 横山党(猪俣党)・西党・秩父氏一族の分布
図5―6 秩父氏略系図