源頼朝の挙兵と武蔵武士

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平家打倒を求める以仁王の令旨が、伊豆の流人源頼朝のもとに届けられたのは『吾妻鏡』によれば治承四年(一一八〇)四月二十七日のことであった。それから三か月余り後の八月十七日夜、頼朝は伊豆の目代山木判官兼隆の館を急襲し以仁王の令旨を掲げて兵を挙げた。以仁王・源頼政らは挙兵に失敗して宇治で敗死し、平氏は諸国の源氏に対する警戒を強めていた。すでに源氏の追討命令も発せられ、八月はじめには平氏の密旨を帯びて大庭景親以下多数が京都から帰ってきており、まさに差し迫った状況のなかでの挙兵であった。
 山木兼隆を討って伊豆から相模に向かった頼朝は石橋山で大庭景親ら相模武士を中心とする「平家被官(ひかん)之輩」三千余騎の軍勢に行く手を阻まれ、大敗を喫して箱根山中に隠れ、九死に一生を得て海路安房へ遁れた。平家方軍勢には熊谷直実らの武蔵武士もあり、『源平盛衰記』には稲毛重成、岡部忠澄の名も見えている。相模三浦氏は頼朝に呼応して本拠地三浦を発ったが、石橋山合戦に遅れて引き返す途中、相模に発向してきた畠山重忠の軍と遭遇し、小坪・由井浦(神奈川県鎌倉市)に戦った。これに敗退した重忠はさらに一族で秩父家家督にあった河越重頼、江戸重長らとともに三浦氏を衣笠城に攻め、三浦義明を討ち取り、義澄・和田義盛らを海上に敗走させた。重忠自身も横山党などの武士団を率いていたようだが、「金子・村山・山口党、児玉・横山・丹党、忍・綴党」(『源平盛衰記』)など武蔵武士のほとんどは、武蔵国留守所総検校職河越重頼の動員によって衣笠城攻めに加わった。重忠が重頼に援軍を要請したのもそのためである。
 保元・平治の乱以降、平氏は院権力下において勢力を拡大していくなかで諸国の軍事警察権を獲得し、内裏大番役(だいりおおばんやく)などを通じて、本来の基盤であった西国だけでなく、かつて源氏の基盤となっていた東国にも勢力を伸ばしていった。慈円(じえん)が『愚管抄(ぐかんしょう)』のなかで「平家世を知りて久しくなりければ、東国にも郎等多かりける」といったように、平氏は東国においても多くの武士を家人として組織していたのである。また武蔵国は平治の乱で武蔵守藤原信頼が没した後、二条天皇親政派の藤原惟方の知行国となったが、惟方が失脚すると平清盛に与えられ、以後一貫して平家の知行国となっていた。治承四年には平知盛の弟知度が武蔵守であり、知盛が知行国主であったとみられる。長年にわたる知行国支配のなかで平氏に従属する武士も多くあったであろう。国衙在庁の留守所総検校職にあって国内の武士団を統率した秩父氏も平氏の家人となっており、頼朝挙兵時には畠山重能・小山田有重兄弟も平家奉公のため上洛中であった。安房に上陸し態勢の建て直しを図る頼朝にとって、武蔵武士とりわけ秩父氏一族の去就は大きな問題であった。
 頼朝は下総国府に入る前から秩父氏一族の葛西清重・豊島清元らに書状を送って参向を促し、安房・下総・上総の武士を帰順させ下総国府で陣容を整えると、隅田川の対岸江戸郷を本拠とする江戸重長に「武蔵国においては当時汝すでに棟梁たり」と賛辞して参向を促した。しかし一方で重長の動向を窺いながら葛西清重に重長を誘引して討つことを命じている。結局頼朝は十月二日、江戸重長の参向を得ないまま三万騎の軍勢を従えて大井・隅田両河を渡り武蔵国に入った。この軍勢を前に十月四日畠山重忠・河越重頼・江戸重長らは長井の渡しに陣した頼朝に帰順した。翌五日、頼朝は武蔵国府に入り、江戸重長に「武蔵国諸雑事等は、在庁官人ならびに諸郡司等に仰せて沙汰致すべきの旨」を命じて国衙を掌握した。そして六日畠山重忠を先陣、千葉常胤を殿(しんがり)として鎌倉に入る。相模の武士も続々と頼朝に帰順した。十月中旬富士川合戦で平家の追討軍を敗走させた頼朝は、十一月には御家人を指揮・統制する侍所を設置して別当に和田義盛を任じ、十二月十二日鎌倉大倉郷の新亭に移る盛大な儀式を行った。こうして南関東に数国の国衙を掌握した一個の軍事政権が出現したのである。

図5―7 源頼朝の進路