横山党の動向

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頼朝の挙兵に横山党は秩父氏に動員されて平家方として行動したようである。三浦氏との小坪合戦には、畠山重忠の軍勢にいた横山党の弥太郎が和田義盛のもとに停戦の使者として遣わされたことが『源平盛衰記』に見えており(資一―578)、また三浦氏を衣笠城に攻めた時にも河越重頼によって動員された武蔵国の党々のなかに横山党があった(資一―579)。武蔵武士の多くがそうであったように、横山党も頼朝挙兵当初には平家方につき、頼朝が武蔵に入り秩父氏一族が帰順するに及んでこれに従ったのであろう。しかし横山氏本宗の時広や時兼の名は史料には現れず、横山氏と和田氏とが姻戚関係にあったことなどからすると、挙兵当初には旗色を明確にしていなかったのかもしれない。
 小野氏の一族のなかで挙兵当初より頼朝に従っていた者がある。野三刑部丞成綱・義勝房成尋の兄弟である。成綱は『延慶本平家物語』(第二中、三八兵衛佐伊豆山に籠もる事)に流人頼朝に仕えていた武士として比企尼の娘婿安達盛長とともにその名が見えており、頼朝流人時代からの家臣であった。その後平家追討に戦功を挙げたものとみられ、元暦元年(一一八四)には西国に所領を宛てがわれている(『吾妻鏡』元暦元年十一月十四日条)。『吾妻鏡』には成綱が阿波国麻殖保(おえのほ)地頭であったと見えており、これはこの時の恩賞であろう。建久六年(一一九五)には尾張国の守護となっている(『吾妻鏡』建久六年六月二十九日条)。義勝房成尋は頼朝が伊豆に挙兵して相模土肥郷に向かう時すでに頼朝に扈従していた一人である。小野氏系図によれば、成尋は八田知家の婿となり、成尋の子息中条家長は知家の養子となっていた。八田知家は頼朝の乳母寒河尼の兄弟であり、こうした関係から、早くより頼朝に従っていたものと思われる(野口一九八九)。また系図には「成南寺修(執)行」とあって、これが鳥羽城南寺(じょうなんじ)(安楽寿院)であれば、鳥羽上皇の娘八条院との関係も窺える(菊池一九八七)。成綱も早くから刑部丞に任官し、成尋子息家長は建久元年(一一九〇)に頼朝の推挙を得ずに自由任官して頼朝の機嫌を損ない解官されたように、この系統の小野氏は京都との繋がりをもち、早くより横山党の党的結合から離れて活動していたようである。成綱の子義成は正治年間ころより上洛して京都で活動し、承元二年(一二〇八)京都で没した時には防鴨河使判官宮従五位下左衛門少尉となっていた。義成の子時成も御家人であると同時に検非違使として朝廷に臣従して二重の主従関係を結んでいたが、承久の乱に叔父盛綱とともに上皇方につき滅亡した。

図5―8 小野氏系図
(成任の系統)

  菊池紳一「承久の乱に京方についた武蔵武士―横山党の異端小野氏―」『埼玉地方史』二〇、一九八七年

  野口実「流人の周辺―源頼朝挙兵再考―」『中世日本の諸相』上巻、一九八九年