奥州合戦

559 ~ 560
頼朝の挙兵の後、木曽の源義仲や甲斐源氏の武田信義らが相次いで挙兵し、反乱の動きは全国に広がった。治承四年に始まり文治五年の奥州合戦にいたる内乱をその年号から治承・寿永の内乱と呼んでいる。この内乱のなかで頼朝は寿永二年(一一八三)十月には朝廷から東海・東山両道の実質的な支配権を公認され、翌年には公文所・問注所を設置して幕府の行政機構を整備し、徐々にその支配圏を広げていった。元暦二年(一一八五)平氏が壇ノ浦に滅んだ後、源義経は叔父行家と結び後白河法皇の支持を得て頼朝に反乱を起したが、頼朝は北条時政を上洛させて法皇に迫り、これまで頼朝が獲得してきた権限を確認するとともに、義経・行家の追討を名目として、諸国・荘園に地頭・総追捕使を置き、兵糧米を徴収する権限を得た。
 奥州藤原氏のもとにかくまわれていた義経は、文治五年(一一八九)閏四月頼朝の圧力に屈した藤原泰衡によって滅ぼされた。そして頼朝は同年七月、全国の御家人を動員し、自ら軍勢を率いて泰衡の追討を敢行した。奥州藤原氏は後三年の役以来清衡・基衡・秀衡と三代にわたって平泉を中心に奥羽に半ば自立した支配圏を築いていた。奥州合戦によって頼朝は奥州藤原氏を滅ぼし奥羽・出羽の二国を得ただけでなく、御家人の全国的動員や不参者の徹底的な制裁などによって内乱期の御家人制を再編し軍事政権としての幕府の地位をゆるぎないものにした(入間田一九七八、川合一九九六)。また川合康氏の研究によれば、奥州合戦が周到な準備のもとに、日付から軍旗の寸法まで後三年の役の源頼義の故実に基づいて行われ、これによって頼朝が嚢祖将軍頼義の正当な後継者、武家の棟梁としての権威を確立することになったという(川合一九九六)。ここで横山時広・時兼父子も重要な役を担った。『吾妻鏡』によれば、康平五年(一〇六二)九月頼義が安倍貞任の首を獲たとき、横山野大夫経兼が梟首の役を奉り、門客貞兼を以て貞任の首を受け取り、郎従惟仲をしてこれを懸けさせたという。この例に倣って奥州合戦では、経兼の曾孫にあたる横山時広が泰衡の梟首を奉り、子息時兼を以てこれを受け取らしめ、惟仲の後胤七太広綱をしてこれを懸けさせたのである。釘も同じ長八寸の釘が用いられた。七太広綱は「小野氏系図」(『続群書類従』第七輯上)によれば「小比企七太広綱」とあって、横山荘内の小比企(八王子市)に住していたらしい。九月三日肥内郡贄柵(秋田県大館市)で家人河田次郎に討たれ、六日志波郡陣岡(岩手県紫波町)において梟首された泰衡の首は、いま清衡以来三代の遺体とともに平泉中尊寺に安置されている。そのミイラには多数の切創とともに額から後頭部に貫通する剌創があって、横山時広・時兼らによる八寸の釘討ちの事実を伝えているのである。
  入間田宣夫「鎌倉幕府と奥羽両国」『中世奥羽の世界』一九七八年

  川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ―治承・寿永内乱史研究―』講談社選書メチエ、一九九六年