吉富郷と関戸郷

560 ~ 562
中世の多摩川は現在よりも北を流れ、多摩川右岸、多摩市関戸を中心として府中市中河原をも含む多摩市北部一帯は吉富郷に属していた。『吾妻鏡』治承五年(一一八一)四月二十日条に平太弘貞の所領として「多西郡吉富ならびに一宮・蓮光寺」とあるのがその初見である(資一―580)。
 日野市百草の八幡神社には建長二年(一二五〇)の年号をもつ真慈悲寺の阿弥陀如来座像がある。その背銘には「武州多西吉富真慈悲寺」とあって、真慈悲寺という寺院が吉富郷内に存在したことが知られていた(資一―629)。真慈悲寺の所在地については、「吉富」を「キット」と読んで「乞田」に比定し、永山五丁目小字瓜生で出土した五間二面の寺院址とみられる遺構を真慈悲寺にあてる説もあったが(菊池一九六七、多摩ニュータウン遺跡調査会一九六六)、近年の発掘調査によって、京王百草園内松蓮庵周辺が真慈悲寺の故地であることがほぼ確実となり(峰岸一九九〇、日野市遺跡調査会一九九三)、百草(中世では増井といった)のあたりも吉富郷内に含まれていたことがわかった。

図5―9 真慈悲寺阿弥陀如来座像


図5―10 真慈悲寺阿弥陀如来座像背銘

 康暦元年(一三七九)十一月三十日鎌倉公方足利氏満御教書(資一―700)には「武蔵国多東郡吉富郷号関戸」とあって、吉富郷は関戸郷とも呼ばれたことが知られる。鶴岡八幡宮外方供僧の衆会記録である『当社記録』によれば、十五世紀頃吉富郷は「関戸郷」「関戸六ヶ村」とも呼ばれ、六ヶ村の内には中河原村・鹿子嶋村があった。鹿子嶋村は多摩川の流路の変遷によって失われたものか、現在ではどこにあったのかわからない。この他に慶長四年(一五九九)五月九日の熊野廊之坊諸国旦那帳(潮崎稜威主文書)には「関戸七郷」と見えている。
 このように中世では吉富と関戸の地名が併用されていたが、吉富は次第に使われなくなり失われていった。関戸熊野神社所蔵の太鼓銘には「元治元年(一八六四)十二月 吉富庄関戸郷」と記されているというが(菊池一九六七)、吉富郷は『新編武蔵国風土記稿』には関戸・中河原などに「吉富庄」としてその伝承を残すのみとなった。
  菊池山哉「南多摩の史跡」 『東国の歴史と史跡』一九六七年

  多摩ニュータウン遺跡調査会『多摩ニュータウン遺跡調査報告』一、一九六六年

  日野市遺跡調査会『京王百草園の発掘調査』一九九三年

  峰岸純夫「武蔵国吉富郷真慈悲寺」『地方史研究』二二七、一九九〇年