平太弘貞とその所領

562 ~ 564
関東を制圧した源頼朝は、鎌倉大倉の新亭に入った直後の治承四年(一一八〇)十二月十四日、武蔵国住人等に本知行地主職の安堵をおこなった(『吾妻鏡』同日条)。おそらくこの時のことであろう。小山田(稲毛)重成は「武蔵国多西郡吉富ならびに一宮・蓮光寺等」を自らの所領に書き加えて申請し、安堵の下文を賜ったという(資一―580)。しかし実はこれらは平太弘貞の所領であった。弘貞が幕府に訴え、幕府でその実否が調査された結果、弘貞の主張が認められて、所領は弘貞に返付された。重成は頼朝の不興を買って、畏怖をなして籠居したと『吾妻鏡』は伝えている。
 小山田重成は秩父氏一族小山田別当有重嫡男で橘樹郡稲毛荘を本拠として稲毛を称した。その子息には小沢を名乗る重政があり、重成自身も小沢郷を所領としていたことが知られている(『吾妻鏡』元久二年十一月四日条)。小沢郷は現在の稲城市から神奈川県川崎市多摩区菅、麻生区金程・細山一帯に比定されており、連光寺とは丘陵を挟んで隣接しており、このような関係から重成は吉富等の押領を図ったものと思われる。
 平太弘貞についてはこの史料以外には知られず、その系譜等は全く不明であるが、所領吉富・一宮・蓮光寺については、その名称などから国衙領の別名(べつみょう)であったと考えられ、後に述べるように平太弘貞が国衙在庁官人であった可能性が高い。別名とは平安末期、旧来の郷を分割するかたちで成立した国衙領の徴税単位で、郡や郷を経由せず、特別の符(別符(べっぷ))によって官物等が徴納されたことから別符の名(みょう)、別名と呼ばれた。その多くは在地領主による荒田開発に由来し、領主は国衙に対して年貢収取を請負ったが、その領内の農業経営全般を管理・統轄する権限を獲得した。吉富とは当時名の名称としてよく使われた縁起のよい字を組合わせた名称で、後には吉富郷とも呼ばれたが、もとは別名として成立したものであろう。十三世紀の若狭国内の惣田数を記した若挟国大田文によれば、別名のなかには名だけでなく、保、浦、寺、社(宮)、出作加納などさまざまな名称をもつものが含まれていた(大山一九七八)。寺社などの別名は国衙に対する応輸田と寺社免田とから成っており、弘貞の所領一宮・蓮光寺も寺社免田をそのうちに含む別名であったとみられる。一宮は多摩市一ノ宮の小野神社に比定され、蓮光寺は現在多摩市連光寺にその地名を残しているが、十二世紀末には寺院が存在したのであろう。
 こうした別名が一般に国衙所在郡に集中して存在し、在庁官人の給田を含んだ在庁名などのように、別名の成立主体の多くが在庁官人であったことからすれば、吉富・一宮・蓮光寺など国衙と近接する地域の別名の領主であった平太弘貞とは国衙在庁官人であったと推測することも可能であろう。日野台地を中心として多西郡一帯には在庁官人日奉氏が蟠居していた。日奉氏系図には弘貞の名は見られないが、「弘」あるいは「貞」の字をもつ者が散見されることから、あるいは平太弘貞はこの日奉氏の一族であったかもしれない(本章第三節3参照)。
  大山喬平「国衙領における領主制の形成」『日本中世農村史の研究』一九七八年