武蔵一宮

565 ~ 568
小野神社は、すでに八世紀半ばには官幣社として史料上にあらわれ、『延喜式』神名帳に多摩郡八座のうちのひとつとして挙げられた式内社であったが、中世には武蔵国衙に近在する関係から武蔵一宮となった。諸国に一宮・二宮などの神社の序列が成立するのは平安中期以降であるが、その設定には国司・国衙が深く関わっていた。一宮となった神社には、下総香取社や常陸鹿島社などのように律令制下の神社制度において最高位の神階をもち、古代以来の歴史的伝統をもつ神社も多くあったが、十一~十二世紀地方支配の変質、国衙在庁支配機構の成立に伴って国内の諸社は新たな秩序のもとに再編され国衙の管理・統制下におかれることになった。武蔵国の場合、『神道集』によれば一宮は小野神社(多摩市一ノ宮)、二宮は小河神社(あきる野市二宮神社)、三宮は氷川神社(埼玉県大宮市)、四宮は秩父神社(埼玉県秩父市)、五宮は金鑽神社(埼玉県神川村)、六宮は椙山神社であった(資一―683)。『延喜式』神名帳では、武蔵国内四四座のうち氷川神社・金鑽神社が名神大社で、小野神社は小社、小河神社は式外社であり(資一―275)、一宮・二宮以下の序列がこうした神格とは関係なく設定されたものであったことがわかる。武蔵一宮としては氷川神社が有名であるが、氷川神社が一宮と称されるようになるのは戦国期以降で、小野神社が武蔵一宮であったことは、その初見史料でもある『吾妻鏡』治承五年(一一八一)四月二十日条に「武蔵国多西郡内吉富ならびに一宮・蓮光寺」とあることからも明らかである(資一―580)。小野神社・小河神社はともに国衙所在郡である多摩郡内にあり、小河神社は鎌倉時代国衙在庁官人である日奉氏が「当社地頭職」をもつなど(建暦三年九月七日武蔵国留守所下文写)、一宮・二宮の設定が国衙との関連によるものであったことを窺わせる。
 武蔵一宮小野神社に関する史料は極めて乏しく、『吾妻鏡』など武蔵一宮を含む近国一宮に対する幕府の施策に関するものがほとんどである。そのなかで小野神社に残されたものに随身倚像がある。昭和四十九年この随身倚像に墨書銘があることが発見され、翌昭和五十年二月六日東京都の文化財に指定された。二体の像のうち、右像には胴部に「元応元年十月廿九日 因幡法橋応円/奉行人太田大良左衛門 再色寛永五戊辰年三月廿五日相州鎌倉仏師大弐宗慶法印」、挿首内部に「元応元年十月廿九日奉行人権律師丞源」の銘文がある。左像は頭部・両手首を逸失し、胴部に「寛永五戊辰年三月廿五日 相州鎌倉仏師大弐宗慶法師作之 武州多西郡一之宮小野大明神 奉行人太田大良左衛門久忠 新田大炊助」の銘文がある(資一―648)。これによれば、この随身像は元応元年(一三一九)因幡法橋応円・権律師丞源らによって小野神社に奉納され、寛永五年(一六二八)右像は相州鎌倉の仏師大弐宗慶法印によって彩色などの補修がなされ、左像はこの時新調された。随身は祭神の守護神として神社の社殿内あるいは社殿前の随身門に安置されるが、近世には小野神社境内に二間三間半の随身門があり、そこに随身像が安置されていたという(『新編武蔵国風土記稿』)。

図5―11 随神倚像(多摩市小野神社蔵)
(右像)


(左像)


図5―12 一宮大明神社(『江戸名所図会』)

 また明治二十六年六月の「神社宝物古文書取調書」には慶長十四年(一六〇九)の棟札(大正十四年に焼失)が記載されている。
 棟札壱枚 一宮正一位小野神社造営再興
      慶長十四年十二月廿六日
      當将軍源朝臣秀忠
       神主 新田大炊介守忠
          太田太郎左衛門久忠
 近世初頭には小野神社はかなり荒廃していたとみられ、慶長十四年に社殿が再建されるとともに、傷みの激しくなっていた随身像も補修がなされたのであろう。