図5―13 小野神社(府中市住吉町)
中世の多摩川本流が現在よりもずっと北にあったことは確かで、流路の変遷により移転した村も存在し、多摩川付きの村々は度々洪水の被害に見舞われた。しかし一ノ宮村には移転してきたとの伝承はなく、少なくとも文献からは村や神社の移動を示すものは確認されない。一宮の初見である『吾妻鏡』治承五年の記事は「多西郡吉富ならびに一宮・蓮光寺」と記し、現在の多摩市一ノ宮を想定するのが妥当であろう(資一―580)。一ノ宮小野神社周辺には古墳時代後期から奈良・平安時代にわたる落川遺跡が存在し、この遺跡から発掘された瓦と同様の奈良時代末期か平安時代初期頃の布目瓦が一ノ宮小野神社境内から出土している(福田一九八二)。このことは一ノ宮小野神社がもとよりこの地にあったことを示すものである。菊池氏が推定した文禄・慶長という年代は多摩川の流路が大幅に移動した時期であったとしても、この時期に一ノ宮村および神社が移転してきたとは到底考えられないのである。それは文禄三年(一五九四)の一ノ宮の検地帳の存在からも明白である(山口正太郎家文書)。そこには「酉いど(鳥居戸)」「ねぎはし」などという神社に関連する小字も見えている。
小野宮の小野神社は江戸時代後期にはかなり廃れていたようであるが、祠の後ろに周囲十尋(ひろ)(約一八メートル)ほどの欅の枯株があったことから、古い由緒をもつ神社であると考えられ、小野神社という社名、そして小野宮という地名から、ここが式内社小野神社の故地であると考えられた。菊池氏の説でも小野宮の小野神社が一宮の旧地であるとする根拠はこの欅にある。近世後期の地誌類では、一ノ宮小野神社が当時「一ノ宮明神社」と呼ばれていたことから一様にこれを式内社小野神社に結び付けることには懐疑的で、小野宮の小野神社を式内社小野神社と認めた。このような過程で、小野宮の小野神社から一ノ宮への遷座という説が優勢となっていったのである。しかしこれが一宮を「開国の祖神」とする当時の一般的認識のうえにたっていることに注意する必要がある。水災による流失という点については、猿渡盛章(一七九〇~一八六三)の『新撰総社伝記考証』には次のように記されている。「もし此社、一宮へ遷坐ししなれば、中昔玉川の水災などによれるなるべし」。この後から遷座の理由が水災によるものと記されるようになる。この水災ということ自体も明確な根拠をもっていないと言わざるを得ない。いまのところ、一ノ宮小野神社がもとより一ノ宮に存在したことを否定する根拠はないのである。
菊池山哉「分倍河原の古戦場に就て」『府中市史史料集』十一、一九六六年
佐伯弘次「一の宮「小野神社」について」『多摩のあゆみ』七、一九七七年
福田健司「落川遺跡と小野神社」『続東京以前』一九八二年