幕府はこのような修理・造営のほか、世上祈祷などのため一宮に奉幣を行った。寛喜元年(一二二九)十二月十日には雷電により相模・武蔵・上野・安房・上総の一宮に奉幣使が立てられ、神馬・御剣等が寄進された。武蔵国へは武蔵守北条泰時の使者が奉幣使となった(資一―622)。この時にはまた社壇において大般若経の転読が別当等に命じられている。一宮には社内に別当寺があって神官とともに供僧が置かれるのが普通であったが、小野神社では近世には境内に本地堂があって文殊菩薩像が安置されていたという(『新編武蔵国風土記稿』)。この文殊菩薩像は明治の神仏分離で近在する真明寺に移された。南北朝期の成立と考えられている『神道集』にも「本地は文殊なり」と記されており、中世にも文殊菩薩を安置した別当寺の存在が想定できよう(資一―683)。なお近世に百草村小字仁王塚から出土した建久四年(一一九三)銅製経筒には「一宮別当松連寺」という刻銘があるが、これは松連寺がその創建年代を引き上げるために追刻したものであり鎌倉時代には松連寺は存在していない(資一―600)。
図5―14 文殊菩薩像(多摩市真明寺蔵)
幕府による寺社への修造命令や奉幣は蒙古襲来を機に全国的に拡大されることになった。弘安年間以降、全国の社寺に異国降伏の祈祷命令が出され、神領・神宝等の寄進が行われた。武蔵国には弘安二年(一二七九)、弘安六年(一二八三)、正応五年(一二九二)に異国降伏命令が出され、一宮・国分寺をはじめ国内の宗たる寺社で敵国調伏の仏神事が行われた(資一―639)。