鎌倉幕府と一宮

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一宮の修理・造営は宣旨によって行われるのを原則とし、その用途は一国平均役として荘園公領を問わず一円に賦課されるのが通例であった。武蔵一宮小野神社については、室町期ではあるが、造営料として一国平均に段別一〇疋(一〇〇文)の銭が賦課されている(資一―727)。公家新制でも繰り返し諸国一宮の修造が命じられたように、国分寺とならんで一宮は国家の安泰を祈念する国家的守護神としての役割を果した。東国では幕府成立後、本来国衙の任として行われた一宮・国分寺等の修理・造営は、幕府の管轄下に行われることになった。文治二年(一一八六)五月二十九日東海道諸国の惣社・国分寺の破壊等の調査が守護人等に命じられ、建久五年(一一九四)十一月二十七日には近国の一宮・国分寺に対して修復命令が出されている(資一―605)。『吾妻鏡』寿永元年(一一八二)八月十一日条には「近国宮社」として相模・武蔵・常陸・上総・下総・安房の国々が見えていることから、ここでの「近国」にも武蔵国が含まれたであろう。
 幕府はこのような修理・造営のほか、世上祈祷などのため一宮に奉幣を行った。寛喜元年(一二二九)十二月十日には雷電により相模・武蔵・上野・安房・上総の一宮に奉幣使が立てられ、神馬・御剣等が寄進された。武蔵国へは武蔵守北条泰時の使者が奉幣使となった(資一―622)。この時にはまた社壇において大般若経の転読が別当等に命じられている。一宮には社内に別当寺があって神官とともに供僧が置かれるのが普通であったが、小野神社では近世には境内に本地堂があって文殊菩薩像が安置されていたという(『新編武蔵国風土記稿』)。この文殊菩薩像は明治の神仏分離で近在する真明寺に移された。南北朝期の成立と考えられている『神道集』にも「本地は文殊なり」と記されており、中世にも文殊菩薩を安置した別当寺の存在が想定できよう(資一―683)。なお近世に百草村小字仁王塚から出土した建久四年(一一九三)銅製経筒には「一宮別当松連寺」という刻銘があるが、これは松連寺がその創建年代を引き上げるために追刻したものであり鎌倉時代には松連寺は存在していない(資一―600)。

図5―14 文殊菩薩像(多摩市真明寺蔵)

 幕府による寺社への修造命令や奉幣は蒙古襲来を機に全国的に拡大されることになった。弘安年間以降、全国の社寺に異国降伏の祈祷命令が出され、神領・神宝等の寄進が行われた。武蔵国には弘安二年(一二七九)、弘安六年(一二八三)、正応五年(一二九二)に異国降伏命令が出され、一宮・国分寺をはじめ国内の宗たる寺社で敵国調伏の仏神事が行われた(資一―639)。