多摩市の周辺には、蓮生寺、真慈悲寺など「御祈祷の霊場」といわれ、幕府から寺領の寄進をうけ、将軍家の安泰と長久を祈念する「将軍家御祈祷所」あるいは「鎌倉殿御祈祷所」と呼ばれるような寺院があった。武蔵国では他にも「源家累代之祈祷所」であった威光寺(長尾寺ともいう。神奈川県川崎市多摩区長尾妙楽寺)や求明寺(神奈川県横浜市南区)、慈光寺(埼玉県比企郡都幾川村)、平沢寺(埼玉県比企郡嵐山町)などが知られている。治承四年(一一八〇)十一月武蔵国内寺社の狼藉を停止させるため土肥実平を遣わしたのをはじめとして、幕府草創期には武蔵国内の寺社に対する政策が集中してあらわれている。
蓮生寺は、源義朝の護持僧で、頼朝が胎内にいた時安産の祈祷をおこなったという円浄房が、平治の乱後に京都から武蔵国に来て草創し住所とした寺院である(資一―581)。寿永元年(一一八二)円浄房は頼朝に召されて営中に参上し祈祷を行ない、その賞と往年の功によって頼朝より寺田の寄附をうけた。この蓮生寺は現在の八王子市大塚にある曹洞宗由木山蓮生寺に比定されている。当寺はこれまで度々火災にあい来歴は明らかではないが、古くは天台宗で、天正の頃永林寺二世恵鑑によって中興されたと伝えられている。当寺には十二世紀中頃の定朝様のみられる中央様式の本尊毘蘆舎那仏座像が所蔵されている。他にも十二世紀中頃かそれより遡る頃の薬師如来像や、平安時代末から鎌倉時代初期の不動明王立像・毘沙門天立像、鎌倉時代の十二神将立像があり、古くからの寺院であることが窺われるが、この諸像は残念なことに近年火災によって焼失してしまった。近年の発掘調査でも蓮生寺付近から十二世紀中葉から十四世紀前半の寺院址とみられる遺構や多数の中世の遺物が出土しており(TNTNo.六九二遺跡)、当寺が『吾妻鏡』の蓮生寺であった可能性を示している。