建長二年(一二五〇)「施主源氏」と「願主仏子慶祐」によって、銅像阿弥陀如来座像が真慈悲寺に奉納された。現在百草八幡宮(日野市百草)本殿東脇の収蔵庫に納められているこの像は、背に銘文が刻まれ、施入の趣旨が記されるとともに、「日本武州 多西吉富 真慈悲寺」とあって、真慈悲寺が多西郡吉富郷にあったことを記している(資一―629)。この像は近世には八幡宮の別当寺であった松連寺の観音堂に安置されていた(『新編武蔵国風土記稿』)。松連寺は享保二年(一七一七)小田原城主大久保忠増の室寿昌院元長尼の中興になる黄檗宗の寺院で、明治六年(一八七三)に廃寺となり、その後寺地は百草出身の青木角蔵氏の所有となり庭園として整備され、現在は京王帝都電鉄株式会社の所有となって京王百草園として一般に公開され梅の名所として親しまれている。松連寺がその創建を天平年間といい、由緒の古いことを示す数々の寺宝を所蔵していたことから、真慈悲寺のあった地はこの周辺であることが想定されながらも長らく不明となっていた。しかし近年の百草園内での発掘調査、および研究の成果によって、松連寺が真慈悲寺の廃絶後に建てられた寺院であることが判明し、ここが真慈悲寺の故地であることが明らかになった(峰岸一九九〇、日野市遺跡調査会一九九三、日野市一九九四)。またこれによってこの百草の地が、中世の吉富郷に含まれることも判明したのである。
図5―15 百草松連寺(『江戸名所図会』)
百草園周辺には「新(真)堂ケ谷戸(しんどうがやと)」「宝蔵橋」「大栗川(大庫裏川)」「仁王塚」といった寺院関係の字名が数多く残り、東電学園敷地内の新堂ケ谷戸に望む北側斜面には堂宇が建っていたとみられる平場が確認されている。これらは真慈悲寺に関わるものであると考えられ、百草園内の本堂を中心として、いくつもの坊舎をもつ山上寺院が展開していたものと思われる。元禄十三年(一七〇〇)仁王塚とよばれる場所からいくつかの経筒が発見された。そのうち長寛元年(一一六三)・永万元年(一一六五)・建久四年(一一九五)の銘を持つ経筒が伝存している(資一―563・565・600)。この経筒とともに仁王塚から出土したと伝えられているものに、古鏡、香合、護摩器、古壷、短刀などがある(『新編武蔵国風土記稿』)。これらは経塚の副納品として経典を容れた経筒とともに埋納されたものであろう。この他松連寺に源義家の兜に立てたものと伝えられていた一寸八分の観音像も経塚遺物とみられる(『百草松連寺の記』)。このような遺物をともなった経塚が百草園の東にのびる丘陵上にいくつも築かれていたものと考えられる。
図5―16 仁王塚出土の経筒(『多波のみやげ』)
図5―17 経塚模式図
(奈良国立博物館『館蔵の経塚遺物』より転載)
平成三年九月から同五年二月にかけて行なわれた百草園内の発掘調査で、方南居東側斜面の中腹の現在トイレとなっている場所から、軒丸瓦・軒平瓦・丸瓦・平瓦など中世の瓦が大量に発見された。これらの瓦は西側斜面上の平場(現在の方南居の場所)から斜面に沿って流失し堆積したもので、瓦の製作年代は十三世紀中葉から後半ころと推定されている。このことから、十三世紀後半、方南居・松連庵のある平場には瓦葺きの堂宇が建てられたものとみられる。鎌倉幕府は十三世紀後半、文永・弘安の蒙古襲来に際して全国の寺社に対して異国降伏祈祷の命令を発し、それに伴って多くの寺社で修理や造営が行なわれた。真慈悲寺でもこのような動きのなかで瓦葺きの堂宇が出現したものと考えられる(日野市遺跡調査会一九九三)。しかしこの後真慈悲寺は廃絶し、この地は城塞・砦として利用されたようである。
日野市遺跡調査会『京王百草園の発掘調査』一九九三年
日野市史編さん委員会編『日野市史』通史編二(上)、一九九四年
峰岸純夫「武蔵国吉富郷真慈悲寺」『地方史研究』二二七、一九九〇年