関東御分国武蔵国

576 ~ 578
平氏勢力を武力で駆逐し関東を占領地下においた源頼朝は、東国からの安定的な官物・年貢の納入を望む公家政権との駆け引きの中で、元暦元年(一一八四)六月五日に武蔵国・駿河国・三河国の三か国の知行国主の地位を得た。その時頼朝は、武蔵守に平賀義信、駿河守に源広綱、三河守に源範頼を推挙し国務を行わせた(『吾妻鏡』同日条)。これが関東御分国(かんとうごぶんこく)と呼ばれるものである。関東御分国は鎌倉幕府将軍家の知行国(ちぎょうこく)で、知行国主である将軍は国司を推挙する権限を持っていた。国司には初期に源氏一族、のちに有力御家人も加えられ、幕府内での北条氏の優位性が確立してくると北条氏に独占されるようになった。将軍家の収益は、知行国内の国衙領(こくがりょう)から官物が納められていた。ただし、国衙領以外で荘園等の個別領主が存在する地域に関しては、占領状態を解かれて荘園からの年貢・公事等は中央の荘園領主の許に送進されるようになった。さらに、造内裏役(ぞうだいりやく)や伊勢神宮役夫工米(いせじんぐうやくぶくまい)など朝廷からの国家的賦課にも関東御分国内の荘園・公領を問わず応じなければならなかった。
 文治元年(一一八五)八月二十九日には、関東御分国に伊豆国・相模国・上総国・信濃国・越後国・伊予国が加えられた(『吾妻鏡』同日条)。また、『吾妻鏡』文治二年三月十三日条には、相模国・武蔵国・伊豆国・駿河国・上総国・下総国・信濃国・越後国・豊後国の九か国が関東御分国であったことが記されている。その後、国数の出入りはあったが、三代将軍源実朝以降は四~六か国で構成されるようになった。中でも相模国・武蔵国は、鎌倉幕府滅亡まで恒常的に関東御分国であり続けており、両国が武家政権の根幹であったことをうかがわせる。
 鎌倉時代の武蔵国には守護(しゅご)は設置されなかったので、武蔵守は他の関東御分国の国守とは違って名目だけの国守ではなく、守護の職掌も含めて実際に国務を遂行した。元暦元年六月五日、源義光の孫平賀義信が源頼朝の推挙を受けて武蔵守に補任された。義信の施策は、国衙庁舎内に掲げられ国務の範とされた(『吾妻鏡』建久六年七月十六日条)。平賀義信の後に武蔵守に補任されたのは、義信の嫡子朝雅である。朝雅の武蔵守補任時期は明確ではないが、父義信の離任後あまり時を置かずして補任されたものと考えられている(菊池一九八三)。しかし、朝雅は北条時政・牧ノ方の謀反に関わり失脚、元久二年(一二〇五)八月二日に誅殺された。この後、大江親広・足利義氏が武蔵守に補任されたようであるが、承元元年(一二〇七)正月十四日に北条時房が武蔵守に補任されるに及び、以降の武蔵守は北条氏に独占されるに至る(菊池一九八三・金沢一九八五)。
表5―2 鎌倉時代武蔵守補任表
人名 区分 年月日 出典史料 備考
平賀義信 補任 元暦元年(1184)6月5日 『吾妻鏡』元暦元年六月五日条
重任 文治3年(1187)11月28日 『吾妻鏡』文治三年十一月廿八日条
見任 建久6年(1195)7月16日 『吾妻鏡』建久六年七月十六日条
平賀朝雅 見任 正治2年(1200)2月26日 『吾妻鏡』正治二年二月廿六日条
見任 元久2年(1205)4月2日 『三長記』元久二年四月二日条
足利義氏 補任 元久2年(1205)8月9日 『明月記』元久二年八月十日条
北条時房 補任 承元元年(1207)1月14日 『吾妻鏡』承元元年二月廿日条
遷任 建保5年(1217)12月12日 『北条九代記』『鎌倉年代記』 相模守へ
大江親広 見任 建保6年(1218)12月20日 『吾妻鏡』建保六年十二月廿日条
北条泰時 補任 承久元年(1219)11月13日 『将軍執権次第』『関東評定衆伝』『北条九代記』
辞任 暦仁元年(1238)4月6日 『関東評定衆伝』
北条朝直 補任 暦仁元年(1238)4月6日 『関東評定衆伝』
遷任 寛元元年(1243)7月8日 『関東評定衆伝』 遠江守へ
北条経時 補任 寛元元年(1243)7月8日 『関東評定衆伝』
北条朝直 補任 寛元4年(1246)4月15日 『関東評定衆伝』
辞任 康元元年(1256)7月20日 『関東評定衆伝』
北条長時 補任 康元元年(1256)7月20日 『関東評定衆伝』
出家 文永元年(1264)7月3日 『将軍執権次第』『関東評定衆伝』
北条宣時 補任 文永4年(1267)6月23日 『将軍執権次第』『北条九代記』『鎌倉年代記』『武家年代記』
辞任 文永10年(1273)7月1日 『関東評定衆伝』
北条義政 補任 文永10年(1273)7月1日 『関東評定衆伝』
出家 建治3年(1277)4月4日 『将軍執権次第』『関東評定衆伝』
北条宗政 補任 建治3年(1277)6月17日 『関東評定衆伝』
弘安4年(1281)8月9日 『関東評定衆伝』
北条時村 補任 弘安5年(1282)8月23日 『将軍執権次第』『関東評定衆伝』『北条九代記』
辞任 嘉元2年(1304)6月6日 『北条九代記』『鎌倉年代記』
北条久時 補任 嘉元2年(1304)6月6日 『北条九代記』『鎌倉年代記』
辞任 徳治2年(1307)2月9日 『北条九代記』『鎌倉年代記』
北条煕時 補任 徳治2年(1307)2月9日 『北条九代記』『鎌倉年代記』
遷任 応長元年(1311)10月24日 『北条九代記』『鎌倉年代記』 相模守へ
北条貞顕 補任 正和元年(1312) 『武家年代記』
辞任 元応元年(1319) 『武家年代記』
北条守時 補任 元応元年(1319) 『北条九代記』『鎌倉年代記』
遷任 嘉暦元年(1326)8月 『北条九代記』『鎌倉年代記』 相模守へ
北条貞将 補任 嘉暦元年(1326)9月4日 『武家年代記』
元弘3年(1333)5月 『太平記』
菊池紳一(1983)・『新編埼玉県史』通史編2中世(1988)をもとに作成。

  菊池紳一「武蔵国における知行国支配と武士団の動向」『埼玉県史研究』一一、一九八三年

  金沢正大「十三世紀初頭に於ける武蔵国国衙支配」『政治経済史学』二二二、一九八五年