武蔵国留守所総検校職

578 ~ 580
中世の国衙支配は、十一~十二世紀頃から国の長官である国守が現地に赴任しなくなり、国守の代理として目代(もくだい)が派遣される一方、任国に定住した官人等の末裔を中心として在庁官人(ざいちょうかんじん)が構成され、国衙の実務に従うようになっていた。この様に形成されてきた中世国衙の体制は、一律な構成を採らず国毎の実情に合わせて組織され、「職(しき)(職務とその得分)」も世襲化されるようになった。在庁官人は、国衙における権限をてこに在地領主(ざいちりょうしゅ)としての成長を遂げるようになった。この様に各国において成長してきた在庁官人はその中でも序列化が進み、多くの国では、在庁官人を統べる氏族や家とそれに伴う職が形成された。
 武蔵国でも同様の状況で、桓武平氏の良文流秩父氏が武蔵国留守所惣検校職(むさしのくにるすどころそうけんぎょうしき)を掌握して、武蔵国衙の在庁官人等を統べる立場にあった。その留守所惣検校職は、重綱以来、秩父氏嫡流の河越氏に相伝されたとされているが、武蔵国に入った頼朝にいち早く帰参した秩父氏庶流の江戸重長に対して「武蔵国諸雑事」が仰せ付けられ、この時に重長に留守所惣検校職が与えられたと考えられている(『吾妻鏡』治承四年十月五日条)。しかし、これが事実であったとしてもその補任は一時的なものであり、文治元年(一一八五)に河越重頼が、源義経に与同していたために誅殺されるまで、留守所惣検校職は河越氏が管領していた。河越重頼の後は、同じ秩父氏の畠山重忠の手に移った。この重忠も北条氏の計略により滅ぼされ、留守所惣検校職は設置されないまま、武蔵国経営の実権は北条氏の手中に移ることになった。なお、嘉禄二年(一二二六)四月十日に留守所惣検校職が復活され、河越重員が任ぜられることになったが、その権限はかなり縮小していたものと考えられている(岡田一九七四、永井一九八五、落合一九九三)。
 関東御分国になった後の武蔵国守は、平賀義信を始めとして源氏一族や有力御家人が任じられていたため、国守の国衙支配がそれ以前より強力になり、留守所惣検校職の権限は後退しつつあったが、この畠山重忠の滅亡でそれは決定的になったものと考えられる。なお、寛喜三年(一二三一)と弘安年間(一二七八~一二八八)には「留守代」の職が見られ、留守所を統轄していたようである。『吾妻鏡』寛喜三年四月二十日条では、幕府が武蔵国留守所に対して武蔵国留守所惣検校職について照会を求め、在庁官人が勘状を出し、併せて留守代帰寂が副状を副えている。この照会における実務は在庁官人が行ない、留守代は直接関与せず幕府への仲介を行なっていた。このことから武蔵国留守代は、承久年間以降に武蔵守を独占した北条氏の代官的存在ではなかっただろうか。
  岡田精一「武蔵国留守所惣検校職に就いて」『学習院史学』一一、一九七四年

  永井晋「鎌倉初期の武蔵国衙と秩父氏族」『埼玉県立歴史資料館研究紀要』七、一九八五年

  落合義明「河越経重考」『湘南史学』一三、一九九三年