また、平安後期頃の国衙には、その職務に応じた分掌機関である「所(ところ)」が恒常的に設置されていた。武蔵国においては、税所・調所・大細工所・内細工所・染殿・糸所・駄所等の所が確認される。税所は国衙領からの田租の徴収を、調所は布・茜等の調の徴収を、大細工所・内細工所は国衙所属の工房であったと考えられる。武蔵国の布は著名な特産品であったが、染殿・糸所はそれらを司る「所」であったと考えられ、府中周辺に残る調布・布田・染地(調布市)、上染屋・下染屋(府中市)等はその関係地名であろう。また、武蔵国は馬の産地としても有名で、多摩郡内には由比牧・小野牧等の牧があった。武蔵国衙内の駄所は馬の生産を司ったとされている。小野牧は大栗川・乞田川水系の奥部の支谷に展開していたと考えられ、その故地は多摩市南西部・八王子市由木地区・日野市七生地区にわたる地域に比定されている(高島一九八八)。特に大栗・乞田両河川の上流域をさす広域地名としてつかわれていた由木(ゆぎ)は、「馬具の鞍橋(くらぼね)の居木(いぎ)のこと」(『日本国語大辞典』)とも考えられ、馬生産ひいては牧の関係地名とされよう。また、狛江市内には駄倉という地名も残されている。
図5―18 武蔵国年貢算用状(資一―635)
国掌・内細工所・大細工所などが見える。称名寺所蔵(金沢文庫管理)
武蔵国内には、横山権守を名乗る横山氏、太田小権守を名乗る太田氏、久下権守を名乗る久下氏、豊島権守を名乗る豊島氏、庄権守を名乗る庄氏等がいた。これらは、郡司級の豪族でそれぞれ多摩郡(横山氏)・足立郡(太田氏)・大里郡(久下氏)・豊島郡(豊島氏)・児玉郡(庄氏)に拠点を持っており、国衙においても一定の地位を持っていたものと考えられる(峰岸一九八八)。また、郡の下の郷にも郷司職が補任されていた(『吾妻鏡』建暦二年二月十四日条)。
高島緑雄「古代から中世へ」『日野市史』通史編一 第六章、一九八八年
峰岸純夫「治承・寿永内乱期の東国における在庁官人の「介」」『中世東国史の研究』一九八八年