中世都市武蔵府中

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多摩市域の隣接地である武蔵府中は、中世においてどの様な構造を持っていたのであろうか。
府中の中で中心を占めるのは、武蔵国府の中心的官衙たる国庁である。その所在地については、従来より諸説唱えられていたが、発掘調査の進展により大国魂神社東側の京所地区西側(府中市宮町)が最有力視されている。しかし、国庁推定地が市街地に含まれているために国庁遺構そのものの発掘には至っていない。
 国庁の周辺には、官衙的な建物群が取り巻き、さらにその周囲に官衙・居館を含む住居遺構が広がっていたと考えられている(荒井一九九五)。府中市による発掘調査では、中世の建物跡の可能性がある柱穴(ピット)が検出されているものの江戸時代の遺構により上面が削平されており、その性格は明らかにされていない。今後の調査が期待されるところである。文献上からは税所・調所などの徴税関係の所や大細工所・内細工所・染殿・糸所などの手工業関係の所が鎌倉時代に存在していた事が確認され、これらも国庁の周辺に所在していたものであろう。これら府中の官衙・集落は、台地の縁辺・府中崖線下の沖積低地上に展開していたと想定されている(荒井一九九二)。
 国庁の西側には、武蔵国の惣社(そうじゃ)である六所宮(現在の大国魂神社)が所在する。惣社は、一般に多くの神社を一所に勧請して祀っている神社のことであるが、特に国府近在の惣社は、国司が国内神祇を巡拝するかわりに一宮以下の諸社をまとめて祭祀を行なうために設置したものである。従って惣社が設置されている国では、国内神祇の最高位に位置付けられることが多い。武蔵国の場合も六所宮が、国内神祇の中心的な存在になっていたのである。六所宮の境外摂社の坪宮(府中市本町)も鎌倉時代に存在していた事が知られる(資一―635)。また、国庁南側の沖積低地の微高地上には、天台宗の教学センターである談義所(定光寺)も所在していた。
 六所宮の西側には、鎌倉街道上道が南北に通っていた。鎌倉街道は府中付近で直進ルートと六所宮の西側に大きく迂回する東進ルート(現在の府中街道)に分れている。この街道が、現在の多摩市域を通過して鎌倉に通じていた。東西には、旧甲州街道が走っていた。府中近辺を貫通する旧甲州街道は、現在の甲州街道より南側の府中崖線下を通っており、鎌倉街道と交差していた。また現在より府中崖線寄りを流れていた多摩川は、水上交通路としても機能していたと考えられ、府中と多摩市域の間は幹線ルートが通る交通の要衝であった。「市場祭文」(武州文書)という史料によれば、これらの交通路が集中する六所宮に市場が開かれていた事がわかる。
 中世都市内部における墓地の設置は一般に規制・忌避されており、府中においては多摩川河川敷や対岸の丘陵部に多く埋葬されていたようである。これについては、本節5項を参照のこと。
 鎌倉時代の多摩市域は、武蔵国衙の周縁地として中世都市府中の強い影響下のもとに推移していったものと考えられるのである。
  荒井健治「武蔵国府における中世遺構の調査の現状」『府中市埋蔵文化財研究紀要』一、一九九二年

  荒井健治「武蔵国庁周辺に広がる集落」『国史学』一五六、一九九五年