和田合戦の勃発と横山氏の滅亡

583 ~ 584
源頼朝の死後、幕府では梶原景時の追放、比企能員の謀殺、源頼家の幽閉と実朝の擁立、畠山重忠の乱および稲毛重成の謀殺など、政治権力の掌握をめぐって血生臭い事件が繰り返され、北条氏に対抗する勢力は次々に滅ぼされていった。北条時政も実朝を殺して娘婿平賀朝雅を将軍に立てようとして失脚し、幕府の実権は実朝・北条政子を擁する北条義時の手に握られるようになった。そのなかでなお幕府内で勢力をもっていたのが当時侍所別当の要職にあった和田義盛である。その義盛も建暦三年(一二一三)五月二日、一族親類以下、相模・武蔵の武士らとともに兵乱を起こし滅亡した。和田氏と姻戚関係にあった横山氏もこれに与同し一族の多くが滅んだ。
 『吾妻鏡』は事件の経過を次のように記している。建暦三年二月、二代将軍頼家の遺児千寿丸を擁する謀叛計画が発覚し、これに義盛の子息義直・義重、甥胤長が与同していたとして捕らえられた。義盛が強硬に彼らの赦免を要求したが、胤長だけは許されなかったばかりか、一族居並ぶ面前を縛り上げられたまま引き渡され、陸奥国に配流されることになった。さらに胤長の屋敷地は没収され、一旦は義盛に与えられたが、のち改めて北条義時が拝領することになり、義盛の代官は手荒く追い払われた。度重なる屈辱、義時の傍若無人さに義盛は反感を募らせていったという。
 五月二日申の刻(午後四時頃)、和田義盛は一族以下一五〇騎の軍勢を率いて幕府・北条義時邸次いで大江広元邸を襲撃した。与力の衆は嫡男常盛以下子息と土屋義清・古郡(ふるごおり)保忠・渋谷高重など「あるいは親戚として、あるいは朋友として、去春以来党を結び群を成すの輩」であった。横山時兼は和田氏との姻戚関係があったことから、早くから義盛に同調し、三月十九日には鎌倉の義盛の宿館を訪れている。この時館周辺を甲冑の陰兵が徘徊していたといい、幕府でもこの動きを察知して警戒を強めていた(資一―612)。しかし蜂起直前三浦義村・胤義の裏切によって、義盛は時兼の到着を待たずに蜂起に踏みきることとなった。翌三日早朝、かねてよりの計画どおりこの日を箭合わせと思い、横山時兼が聟波多野盛通以下一族を率いて腰越浦に到着した時には、すでに戦闘は始まり、和田義盛の軍勢は前浜(由比ヶ浜)辺まで後退していた。時兼率いる横山党が加わったことで義盛の軍勢は三千騎となって勢いを盛り返したものの、まず土屋義清が討たれ、酉の刻(午後六時頃)義盛寵愛の四男義直、次いで義盛も討たれると軍勢は総崩れとなった。五男義重・六男義信・七男秀盛等が次々に討たれ、三男朝比奈義秀は海路安房へ遁れた。義盛嫡男常盛・横山時兼・古郡保忠らは戦場を遁れて逐電し、翌四日甲斐国坂東山で自害した。『鎌倉年代記裏書』では「横山介(時兼)、山中堂において火を懸け焼死しおわんぬ」と記している(資一―615解説)。ここに和田氏与党は潰滅し、叛乱は将軍実朝・義時ら幕府側の勝利に終わった。五日、早速義盛・時兼以下謀叛人の所領、所職等が没収され、侍所別当に北条義時が任じられた。この兵乱によって、義時は政所別当に加えて御家人統制機関である侍所の別当も手にし、幕府内の地歩を確立した。