横山氏一族の広がりと婚姻関係

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蜂起後出された幕府の御教書に「和田左衛門尉義盛・土屋大学助義清・横山右馬允時兼、全て相模の者共謀叛を起こす」とあり、また京都にも「和田左衛門尉某<三浦と号す>、横山党<両人ともその勢抜群の者なり>、合謀りて、去二日申の時、忽ち将軍幕下を襲う」と伝えられていたように(『明月記』建暦三年五月九日条)、横山氏は当初より和田合戦の首謀者の一人とみなされていた。五月六日、和田合戦の亡卒生虜人等の交名が作成された。それによれば討死した者は小者・郎党を除き、和田義盛一族一三人、「横山人々」三一人、「土屋人々」一〇人、「山内人々」二〇人、「渋谷人々」八人、「毛利人々」一〇人、「鎌倉人々」一三人、その他三七人、捕虜となった者は二八人であった。このなかで横山氏は最も多く一族を動員していたのである。
 交名に記録された横山党の討死者は次の通りである。
  横山右馬允 やないの六郎 平山次郎  同小次郎  粟飯原太郎
  同小次郎  同藤五郎   たなの兵衛 たなの太郎 岡乃次郎
  小山太郎  ちミう次郎  同太郎   同五郎   古郡左衛門
  同五郎   同六郎    同甥一人  同弟二人  同次郎
  椚田太郎  同次郎    同五郎   同三郎   同又五郎
  横山六郎  同七郎    同九郎
 ここにみられる諸氏と系図で比定できる人物を示したのが図5―19である。時兼弟時隆は藍原(粟飯原)を名乗った。その子息には平山次郎時義がある。また同じく時隆子息に平山五郎を名乗る時宗があり、系図では「和田一味被誅」の注記がある。別本の系図(岡部系図)によれば時宗は福地五郎とあり、和田合戦の没収所領のなかに甲斐国福地(山梨県大月市)が見られることから、ここを所領としていたのだろう(資一―618)。時兼弟広季は田名を名乗った。「たなの兵衛 同太郎」は広季とその子息時季に比定される。時兼には叔父にあたる時広弟重兼は椚田を名乗った。「椚田次郎」は重兼子息広重に比定される。古郡氏は時重弟忠重が古郡別当大夫を称したのに始まるが、時広弟忠隆がその養子となり跡を継いだ。古郡氏の系譜は諸本により異なり明確でない。乱の張本の一人であった古郡左衛門保忠はこの忠隆の子息とも、忠重子息ともいう。保忠子息忠光は「古郡五郎」に比定され、この他系図にはこの合戦に同意した者として保忠弟経忠、忠隆子息忠綱の名が見えている。

図5―19 和田合戦与同者

 実名を比定できないやない・ちみう・小山等を除けば、ここに見られる人物は時広の代の庶子がそのほとんどを占め、地域的には平山(日野市)・粟飯原(町田市相原町・相模原市)・小山(町田市)・田名(神奈川県相模原市)・椚田(八王子市)など横山荘とその周辺に集中している。横山氏一族として系図に見られる氏族でも、早くに別れた愛甲氏は「鎌倉人々」に入っており、海老名氏・荻野氏なども「横山人々」には入っていない。これが横山党としての横山氏の惣領権の及ぶ範囲であった。
 次に横山氏の婚姻関係をみてみよう。『吾妻鏡』によれば、時兼の伯母(時広妹)が義盛の妻であり、時兼の妹はまた義盛嫡男常盛に嫁していたことから、横山氏がこの謀叛に与同したのだと記している(資一―615)。この二重の婚姻関係が横山氏を乱に与せしめた大きな理由のひとつであったことは間違いない。神奈川県横須賀市芦名にある浄土宗浄楽寺には、文治五年(一一八九)仏師運慶の作になる不動明王立像・毘沙門天立像・阿弥陀三尊像が所蔵されている。不動明王立像の像内納入札には「文治五年己酉三月廿日庚戌大願主平義盛芳縁小野氏」という銘文があって、この五体の仏像が和田義盛と妻小野氏の発願によって造られたものであることが知られる(資一―590)。この小野氏とは義盛の妻であり、時広妹がその本姓の小野を称したものと思われ、同時代史料からも和田氏と横山氏の婚姻関係が確認される。時広妹を母とする義盛嫡男常盛は建保元年(一二一三)和田合戦で討たれた時四二歳であったというから、遅くとも常盛の生まれた承安二年(一一七二)にはこの婚姻関係が成立していたと考えられる。

図5―20 不動明王立像(浄楽寺蔵)

 この他『吾妻鏡』からは、渋谷高重が時重聟であり、波多野盛通が時兼聟であったことが知られる。このなかには和田合戦に与同したとみられる糟谷・海老名・荻野・四宮などの諸氏もあり、和田合戦において紐帯として姻戚関係の果たした役割りの大きさが窺われる。図5―21に見られるごとく、系図からは横山氏が広く武蔵・相模の有力武士と婚姻関係を結んでいたことが見て取れる。石井進氏はその著書『中世武士団』のなかで、『曽我物語』に見られる伊豆の豪族伊藤氏の親族関係の広がりを示し、それが実に広く相模・伊豆の有力武士団のほとんどが婚姻で結ばれていたことを明らかにした(石井一九七四)。しかし石井氏が「近隣の武士団のほとんどが、なんらかの婚姻関係が親縁関係をむすんでいたとするならば、親族関係がつねに強力なきずなをかたちづくっていたとみるわけにはいかない」と指摘しているように、和田合戦において婚姻関係はひとつのきずなではあったが、それだけが彼らを結び付けていたと考えるわけにはいかない。『吾妻鏡』が述べるように和田合戦が義盛の義時に対する怨恨や、義時の挑発によって引き起こされただけのものではなく、将軍実朝・義時に代表される幕府の現体制の打倒にその目的があったとすれば(松島一九九一)、横山氏にとってもこの乱に与同する主体的な動機があったと考えられる。

図5―21 横山氏の婚姻関係図

  石井進『中世武士団』一九七四年

  松島周一「和田合戦の展開と鎌倉幕府の権力状況」『日本歴史』五一五、一九九一年