横山氏の政治的立場

588 ~ 590
乱後没収された横山時兼の所職に淡路の守護職がある(資一―616)。時兼が淡路守護であったことを示す史料はこのほかにはないが、時兼の父時広が淡路守護であったことを示す史料がある。建久元年(一一九〇)四月十九日伊勢神宮の訴えによって造大神宮役夫工米未済の所々に進済が命じられた時、淡路国国分寺については横山時広に下知が下された(資一―593)。また建久四年(一一九三)にはその所領であった淡路国分寺付近に出現したという九足の異馬を頼朝に進上している(資一―599)。守護領の多くが国府近傍の国衙領にあり、守護が国衙機構と密接な関係をもっていたという一般的状況からすると、国衙の強い支配下にあった国分寺を所領としていた時広は淡路守護であった可能性が高い(佐藤一九七一)。その後一旦佐々木経高が淡路守護となるが、経高の後、時広の旧跡を継いで時兼が淡路守護となったのであろう。
 時広についてはまた幕府草創期文治元年(一一八五)には但馬国総追捕使であったことが知られている(資一―601)。総追捕使(そうついぶし)とは源頼朝が源平争乱の過程で国ごとにおいた軍事指揮官で後の守護の前身である。建久五年(一一九四)には但馬国進美寺(しんめいじ)に対して巻子請取状や狼藉停止の奉書を発給していることから、この時も但馬守護にあったものと思われる(資一―602)。このように横山氏は時広の代より総追捕使・守護として武蔵武士の中でも特に頼朝に重用されていたのである。
 武蔵国では承元四年(一二一〇)北条義時の弟時房が武蔵守となった。横山氏は古代以来小野牧別当としてその経営と開発を進め、国衙所在郡である多摩郡内に広大な所領を形成し、その一族は広く武蔵国内から相模にまで及んでいた。和田氏はじめ相模国内の武士とも広く婚姻関係を結んでいた横山氏は、武蔵守時房にとっても看過できない勢力であったことは間違いない。時兼の祖父時重・父時広は武蔵権守を名乗っており(『小野氏系図』)、時兼自身も『鎌倉年代記裏書』に「横山介」という記載があり(資一―615解説)、国衙在庁官人であったとみられている(峰岸一九八八)。畠山重忠の乱以降、北条氏が国衙支配の実権を握るなかで、横山氏は強い反感を抱いたのではないだろうか。このような武蔵国衙内での横山氏の置かれた立場が反乱に踏みきる動機となったと思われる。
 和田合戦の後、横山荘は幕府宿老大江広元に与えられた(資一―618)。古代以来小野牧別当として成長してきた横山氏の勢力は大きく後退することになった。

図5―22 伝横山氏供養塔(八王子市妙薬寺)

  佐藤進一『増訂鎌倉幕府守護制度の研究』一九七一年

  峰岸純夫「治承・寿永内乱期の東国における在庁官人の「介」」『中世東国史の研究』一九八八年