十二世紀後半以降、徐々にパリア海退期と呼ばれる寒冷な小氷期を迎え、日本列島においても冷害に伴う飢饉(ききん)が頻発する様になってきた。特に寛喜二年(一二三〇)~同三年にかけての寛喜の飢饉は、甚大な被害をもたらした。この飢饉は、幕府の政策にも大きな影響を与え、御成敗式目(ごせいばいしきもく)の制定をはじめ下人に関する追加法も、飢饉を受けて生命維持のために下人身分に転落する人々の増大に対応するものであるという(磯貝一九七八など)。また、西国等においては、鎌倉時代の農業技術の進展に麦を裏作とする二毛作の開始が指摘されているが、これも冷害による稲作減収に対応する動向であるとの評価がある(磯貝一九八九など)。
この様な自然状況下の鎌倉時代には、河川沿岸における開発・再開発可能地の出現と、寒冷化による食料減収に対応せざるを得ない状況があった。一方、政治的には武蔵国が関東御分国になったために国衙領の開発が幕府の主導で行える状況にあり、重ねて承久の乱の恩賞地が必要になっていたことも考えあわせるべきであろう(資一―626)。
高橋学「古代末以降における地形環境の変貌と土地開発」『日本史研究』三八〇、一九九四年
磯貝富士男「寛喜の飢饉と貞永式目の成立」『歴史と地理』二七六、一九七八年
磯貝富士男「古代中世における雑穀の救荒的作付けについて」『東京学芸大学附属高等学校研究紀要』二六、一九八九年