武蔵野開発

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元暦元年(一一八四)に関東御分国が設置されて以来、幕府は関東御分国における生産管理を積極的に行ってきた。その基本となるのが、耕地の実検と、それに基づいて作成される国ごとの耕地の基本台帳たる大田文(おおたぶみ)であった。正治元年(一一九九)十一月十日に作成された武蔵国の大田文は残念ながら遺されてはいないが、国内の耕地を公領と荘園とに分けて、それぞれの面積や荘園領主・地頭等を記載した台帳で、国衙支配の基本の一つとなる台帳であった(『吾妻鏡』同日条)。
 幕府は、武蔵国においても耕地の実検を進め、大田文を作成し国衙支配の基礎を築き上げた。一方、幕府は旧耕地を含めた荒野を地頭等に命じて開発させたのである。この開発は、『吾妻鏡』をみる限り水田を開くことに主眼があったようである。稲の生産高を高めるには、田地の給排水がコントロール可能な乾田にすること、すなわち用水路の開鑿が必要であった。多摩川の様な大きな河川からの引水は、技術力もさることながら多大な労働力の投入と個々の所領単位を越えた政治力が欠かせない。そこで期待されるのが幕府の様な広域権力であった。例えば弘安年間(一二七八~一二八八)、府中の分陪河防修固はその一例である(資一―637・638)。この時、府中市分倍河原辺りを流れていた多摩川の堤が破堤したため、武蔵国衙の在庁官人が実務を執り、武蔵国内平均に賦課をかけて堤の修固を行った。その際、命令から賦課に応じない者への催促まで、四か月もかかっており、この工事が長期にわたる大工事であったことが推測される。

図5―23 武蔵国開発地図
ここに見られる開発は、大河川流域が多い事に注目。『吾妻鏡』等による。

 右の様な状況下、仁治二年(一二四一)十月二十二日幕府の評定において武蔵野の荒野開発が議定された(資一―624)。この武蔵野という地名は、「多磨野」とも称され、現在一般にイメージされる武蔵野台地ばかりではなく、多摩川流域低地の未開発地をも含めるものであったと考えられる。そして、この開発事業の主眼は多摩川からの用水路を引き込むことにあったのである。
 この時の開発は、御家人等への給付が前提にあったようで、開発後の領有は御家人の所領となるため「私」としての開発か、知行国主である将軍家が主体となる開発にすべきかが議されたが、将軍の御恩としての性格があったため、将軍家の沙汰として開発が進められることになった。この開発が土地を改変するという行為を伴うため、「犯土(ぼんど)」という陰陽道の禁忌に相当し、その難を避けるために開発主体である将軍家の方違(かたたが)いが行われることになった。開発対象地は史料には明記されておらず、鎌倉からみて北方、方違い先の本所になった武蔵国久良岐郡鶴見郷内(神奈川県横浜市鶴見区)の安達義景の別荘からみて亥(北々西)に当るという『吾妻鏡』の記述が参考になる。位置の正確な比定は困難であるが、神奈川県川崎市多摩区とその対岸一帯を中心にした地域が想定される。また、福生市の熊川には仁治年間に開発されたという長者堀伝説があり、幕府による武蔵野開発の候補地の一つにあげられている(小松一九九三)。
 この開発に当って、栢間左衛門尉・多賀谷兵衛尉・恒富兵衛尉等が奉行人を勤めたが、野与党の栢間・多賀谷は元荒川・古利根川流域に本貫地をもつ御家人で、治水技術を買われての任命であったであろうことが指摘されている(加藤一九八八)。
 この様に開発された武蔵野の耕地の一部は、野与党の箕勾(みのわ)師政と信濃国の御家人大塩貞重に与えられたことがわかっている(資一―626・628)。箕勾師政は父政高の承久の乱の勲功賞として与えられたものであるが、箕勾氏は栢間氏・多賀谷氏と同じく元荒川・古利根川流域を本貫とする御家人である。また、大塩貞重は宇治橋合戦で戦死した大塩次郎の一族であるとすれば、これも承久の乱の勲功賞による恩給であろう。
  小松寿治「北条氏の武蔵経営と武蔵野開発」『福生市史』上巻第二編第一章第四節、一九九三年

  加藤功「執権政治の確立と展開」『新編埼玉県史』通史編2第一章第二節、一九八八年