旧氾濫原地域では、十二世紀末に平太弘貞の所領として吉富・一宮・蓮光寺の地名がみえる(資一―580)。これらの地名が所有の対象となっていることから、何らかの生産活動が行われていたことは確実であるが、文献資料・考古資料ともにみるべき資料が見出されていないため、近在する日野市南広間地遺跡を参考にしながら概観する(梶原一九九一、森一九九二・一九九四)。南広間地遺跡は多摩川と浅川に挟まれた低地上に展開する遺跡である。中世には土淵郷とよばれた地域に比定され、日奉氏の本拠を含み込む地域と考えられている。この地域は、微細にみれば多摩川と浅川の河道の変遷により微高地と旧河道の低地が網状に走る複雑な地形を持っており、縄文時代から人間の生活痕跡が確認されている。十二世紀には、七世紀後半から八世紀前半に続く開発の時代を迎える。この時代に荒野であった地域に開発の手が入れられ、微高地上には在地領主の屋敷と思われる建物を中心に百姓屋敷に想定される数軒の建物が散在し、畠もそこで営まれたと考えられている。また、旧河道の窪地に水田が作られ、窪地と微高地の間に用水路がめぐらされていた。その水源は、日野台地の湧水が利用されたと推測されている。
多摩市域でも多摩川と大栗川に挟まれている低地では、多摩川・浅川・大栗川の運動により形成された微高地と窪地(旧河道)が展開し、南広間地遺跡と同じ様な状況で開発が進められたと想定される。しかし、水源に関しては河川から取水したものなのか、井戸から汲み上げたものなのか、河川の後背湿地を湿田として利用したものだけなのか、或は何れかの複合であったのかは判然とせず、今後の調査に期待したい。また、その他の生業として鮭や鮎等を中心とした漁業や葦等の採集が考えられるが、資料上では確認されない。
丘陵地域では、大栗川・乞田川流域に展開した小支谷を利用して水田が営まれたと考えられる。これらの支谷は、谷戸(やと)と呼ばれ丘陵からの天水・湧水を利用し、場所によっては溜池も築かれたであろう。谷戸に営まれた水田は、開発は比較的容易であるが、地下水位が浅く乾田にしにくいため近世の村明細帳によれば直播きの摘田による耕作が主体で、なおかつ水源が天水にたよっているために旱魃(かんばつ)に弱く、生産力は低かったものと考えられる(資二社経85など)。さらに近世の村明細帳には大栗川・乞田川からの用水がみられるが、少なくとも中世後期まではさかのぼるのではないだろうか。多摩市域における谷戸田は、多摩ニュータウンの開発によりほとんどが消滅したが、市庁舎北側(関戸六丁目)と連光寺小学校の北側(連光寺三丁目)の谷戸に面影が残る(藁谷一九九三)。また、武蔵国衙の染殿・糸所の存在により、水利が得られない場所では養蚕を前提にした桑の栽培が想定され、多摩市域が府中という消費地に隣接することから、丘陵の林産資源を利用した薪炭・建築資材・木製生活雑器・漆等の生産も考えられる。多摩市落合のTNTNo.九一A・四六二遺跡は、十三~十四世紀前半の幅で考えられている遺跡であるが、掘立柱建物跡を含む集落遺跡の中に用途不明の窯状遺構が三基発掘されている。また、六世紀から十世紀前半にかけての遺跡であるが、TNTNo.二四三・三三九遺跡からは、未完成の木椀が出土しており、多摩丘陵における木製品の生産を示している。
図5―24 貝取の谷戸田
市庁舎北側。多摩市内にはこの様な谷戸田は少なくなった。
小野牧を代表とする多摩市域における古代の馬生産は、中世においてどの様に展開したであろうか。近世には、多摩市域の村明細帳をみる限りその役割はほとんど終えていたと考えられるが、古代小野牧の比定地の一部と考えられる乞田川上流の鶴牧(TNTNo.四五七遺跡)では中世の居館址の近くの土坑から馬骨が出土しており、時代はくだるが連光寺の赤坂と呼ばれる地域は後北条氏の「駒飼場」であったとの伝承がある(「富沢家記録」『家伝史料』巻九)。あるいは連光寺の小字馬引沢もこれに関連した地名であったのかもしれない。
丘陵地域における生産拠点としての住居・集落跡は、多摩ニュータウン開発に先んじて行われた調査により発掘されている。それによると丘陵の裾部・斜面を削平し、数軒程度を単位に散在しており、近世を通して散居型村落のあり方は沖積地に比べ変化は少なかったと考えられる。
梶原勝「多摩川中流域における古代の水田開発」『「開発」と地域民衆』一九九一年
森達也「多摩川中流域の低地の開発と中世村落」『あるく中世』二、一九九二年
森達也「南広間地遺跡」『日野市史』通史編二(上)第二章第四節二、一九九四年
藁谷哲也「多摩市の地形と地質」『多摩市史叢書8 多摩市の自然』一九九三年