日奉氏はこのように武蔵国衙が所在する多摩郡を中心に勢力を伸ばしており、それぞれの地名を名字として名乗っていたが、武蔵国衙内の役職から「一庁官」と「二庁官」の二つの流れに分けられる。日奉氏一族の「小川氏系図」によれば、「一庁官」系は多西介・書生職・貫主を相伝し、「二庁官」系は駄所を相伝していた。鎌倉時代における武蔵国衙(留守所)が発給した文書で現存するものはごく僅かであるが、弘安年間(一二七八~一二八八)七月十六日の武蔵国留守所代連署書状(資一―637・638)の発給者の一人として見える「左兵衛尉実長」は、「小川系図」に見られる「一庁官」系の「細山孫二郎実長」が世代の上でも合致するので、同一人物に比定できるのではないだろうか。また、『吾妻鏡』寛喜三年(一二三一)四月二十日条には、在庁日奉実直・同弘持の活動が知られる。実直については所見は無いが、弘持は一庁官系と二庁官系に同名の人物が見える。ただし、両者とも世代が近いのでどちらの系統の人物であったかは、判断できる状況にない。
日奉一族の中で最も著名なのは『吾妻鏡』に頻出している平山季重で、治承・寿永の内乱における活動が知られる。立河郷の立河氏には「立河文書」が残されているが、その中には土渕氏を始め小川氏・猿渡氏などの多摩川流域の領主たちの活動が知られる。また日奉一族の中には、鎌倉時代に西遷した武士がおり、伊予国弓削島荘の小宮氏、薩摩国甑島の小川氏が著名である。薩摩に西遷した小川氏には、文書・系図が残されており、武蔵国における日奉氏の活動の一部を知る事が出来る。その中に見える小川直高は、父弘直の譲りをうけ武蔵二宮の地頭職を持っていた(図5―25参照)。また、承元二年(一二〇八)六月二十六日に武蔵威光寺領に乱入した狛江増西も日奉氏の一族だと考えられている。
図5―25 日奉氏略系図
網線より下が、ほぼ鎌倉時代以降の人物。本文中に取り上げた人物は□で囲んだ。
ところで『吾妻鏡』養和元年(一一八一)四月二十日条(資一―580)には、平太弘貞が多摩市域に比定される吉富・一宮・蓮光寺の領主であった事が知られているが、平太弘貞の素性は明らかにされてこなかった。しかし、日奉氏の勢力分布から弘貞が日奉一族であった可能性は十分に考えられるところである。ところが「小川系図」には弘貞なる人物は載せられていない。同系図より弘貞と同世代の人名を検索すると一庁官系の小川太郎弘直という人物が注目される。弘直は、先に紹介した武蔵二宮の地頭小川直高の父であり、十二世紀末から十三世紀初頭の人物である。弘貞と弘直は一文字違いであるが、「貞」と「直」の草書体は極めて類似しており、『吾妻鏡』の伝写過程で誤写された可能性がある。また、平太弘貞も小川弘直も太郎を通称としており、この点でも共通項がある。以上のことから平太弘貞は小川弘直と同一人物であると考えたい。そうであるとすれば、武蔵国衙直近の吉富郷も日奉氏の勢力下にあったと理解できる。
図5―26 「貞」と「直」の草書体