年号 | 621号貞応元(1222)12、27 | 632号康元元(1256)7、3 | 634号文永11(1274)8、17 | 642号永仁2(1294)9、29 | 646号正和2(1313)5、2 | 647号文保元(1317)6、7 |
史料 | 天野遠景譜(萩藩閥閲録73)天野遠景の所領 | 將軍宗尊親王家政所下文(尊経閣 武家手鑑 天野文書)天野景観の所領安堵 | 関東御教書写(譜録 右田毛利)天野某の所領安堵 | 関東下知状(尊経閣 編年文書 天野文書)天野顕政の所領安堵 | 関東下知状(尊経閣 諸家文書 天野文書)天野顕茂と同景広の和与 | 関東下知状(尊経閣 諸家文書 天野文書)尼是勝と顕茂・景広の和与 |
多摩郡内の所領 | 武蔵国多摩郡内吉富(地頭職) | |||||
武蔵国大畑名(地主職) | 武蔵国由井本郷大畑村 | |||||
武蔵国多摩郡船木田新荘由井内横川郷 | 武蔵国多摩郡船木田新荘由比内横川村 | |||||
武蔵国由比本郷 | 武蔵国由比内田畠在家源三郎作 | |||||
天野氏は伊豆国天野荘を本貫とする武士で、その子孫は各地に散在するが、多摩地域にかかわるものは、のちに安芸国に勢力をのばした一族と能登国に勢力をはった一族である(系図参照)。表5―3でいえば武家手鑑と編年文書におさめられている天野文書(資一―632・642)は安芸天野氏系統で、船木田新荘由比郷内横川村を領している。安芸天野氏は近世には長州毛利藩の家臣となっている。とすれば毛利藩が編集した『萩藩閥閲録』や『譜録』にみられる天野氏は、いうまでもなく安芸天野氏の系統であり、船木田荘では由井本郷大畑村も領している(資一―621・634)。
これに対して能登天野氏系統のものは船木田荘由比本郷内田畠在家を領し、近世には能登の長氏の家臣となっている。この由比本郷をめぐっては正和二年には天野景広、顕茂の兄弟が相論(裁判)しており(資一―646)、つづいて文保元年には妹の尼是勝がくわわって相論が展開している(資一―647)。いずれも関東下知状によって和与(和解)が成立しているが、鎌倉期の地頭御家人はその所領をめぐって兄弟・親族の間でしばしば相論が行われている。そしてその解決には和与とよばれる話し合いによる和解の方式がとられたが、天野氏の場合もそうであったようである(福田一九八三、一九八五)。
図5―27 天野氏系図
尼是勝は由比尼是心の養女となっているが、天野氏の子女がこの地の有力御家人である由比氏と縁戚関係をもって由比尼とよばれていたと思われる。御家人天野氏と多摩の地を考えるとき興味ある点の一つである。また、建長二年九条道家惣処分状(資一―630)には、船木田新荘・本荘ともに地頭請所と記されている。しかし天野氏の史料からは何も知ることが出来ない。
なお、船木田荘由井郷(由比郷)は現在の八王子市西寺方町・上壱分方町・泉町・諏訪町・四谷町・弐分方町・横川町等の一帯と比定され、由井本郷大畑村は現在の八王子市西寺方町が、由井内横川村は現在の八王子市横川町が考えられている。
福田榮次郎「武蔵国船木田荘の研究」『日本古代史論苑』、一九八三年
福田榮次郎「武蔵国船木田荘の在地動向をめぐって」『郷土たま』四、一九八五年