十四世紀になって多摩川中流域の領主として史料上に現れてくる高麗(こま)氏は、武蔵国高麗郡を本貫とする一族である。彼等の所領は武蔵国高麗郡・入間郡を中心に、陸奥国にも展開していた。得恒郷を中心に本拠をおいた高麗氏は、本宗である高麗郡の高麗氏と区別するため「高幡高麗氏」の呼称が使われている。
得恒郷には、日奉氏が勢力を持っていたのであるが、正和元年(一三一二)八月十八日の高麗忠綱譲状(資一―645)によりこの地域に高麗氏が入っていたのが知られる。日奉氏は、その後多摩川上流域に本拠を移したと考えられるが、その契機として弘安八年(一二八五)の霜月騒動などに代表される幕府中枢における権力闘争の影響を受けたものではないかと考えられる。高麗忠綱譲状によれば、忠綱は高麗郡大町、多西郡得恒郷・船木田荘木伐沢村と付属する山地、鎌倉甘縄の屋地などを領有していた。この譲状で所領を譲与された嫡子孫若は、康永元年(一三四二)に高幡不動堂を修復した高麗助綱に比定されている。その後、高幡高麗氏は南北朝・室町時代にかけて得恒郷・土淵郷などの中心的な領主として活動した。