図5―29 鎌倉街道
多摩市域を貫通していた「上道」は、鎌倉の化粧坂を起点に洲崎(以上神奈川県鎌倉市)、渡内、柄沢(以上神奈川県藤沢市)、飯田、瀬谷(以上神奈川県横浜市)、鶴間、木曽、小野路(以上町田市)を通って多摩市域へと入り、関戸を通過して多摩川を渡り、分倍、府中(以上府中市)、恋ケ窪(国分寺市)野口(東村山市)、堀兼(埼玉県狭山市)、菅谷(埼玉県嵐山町)、鉢形(埼玉県寄居町)、雉ケ岡(埼玉県児玉町)を通って上野国に入り、信濃国や下野国に通じるルートが想定されている。この「上道」は、建久四年(一一九三)に源頼朝が上野・下野国の狩倉をみるために下向した際につかわれたのをはじめ(資一―597)、翌建久五年には曽我祐成の妾虎御前が祐成・時致兄弟の供養のため信濃国善光寺へ参詣する際もこの道がつかわれている(資一―624)。このことは、「上道」が鎌倉との往来や、従来強調されている軍事面ばかりではなく、中世以来東国を中心に盛行していた「善光寺詣」のための「巡礼の道」としても機能していたことがわかる。この道筋は、鎌倉時代末に撰集された『宴曲抄』の「善光寺修行」にもつづられている(資一―643)。板碑等に代表される東国の阿弥陀信仰のひとつはこの善光寺詣が支えていたものであろう。また、元弘三年(一三三三)五月の新田義貞等による鎌倉攻めの進路としてつかわれたのは最も著名である。
それでは次に、府中市から町田市に至るまでの多摩市域における鎌倉街道を少し詳しく辿(たど)ってみることにする。府中を発した鎌倉街道は、府中崖線を下って多摩川の河川敷に出る。この辺りは分倍河原と呼ばれ、現在の府中市分倍近辺になる。ここで、鎌倉街道は多摩川を渡河した。中世における多摩川の主流路は、この分倍辺りを流れていたと考えられており、現在も帯状の凹地として僅かにその痕跡を残している。多摩川を渡ると吉富郷内の中河原に入り関戸へと向う。中河原の西側、関戸の北側に当る現在の多摩川の流路を中心としていた地域は、青柳と呼ばれており東側の境を鎌倉街道に接していたらしい。青柳は、現在国立市内の地名になっているが、これは万治二年(一六五九)七月二日の多摩川氾濫によりほとんどが流されてしまい、その住民が現在の青柳に移住したためである(「青柳根元録」『国立市史』中巻所収)。
関戸に入った鎌倉街道は、大栗川を渡り現在「旧鎌倉街道」と呼ばれている丘陵沿いの道を南下する。近世における関戸六丁目辺りは、鎌倉街道沿いに民家が立ち並んだ集落が成立していたが、鎌倉時代においても源頼朝が上野国下向の際に宿泊しており宿としての機能を持ち合せていたことがわかる(資一―597)。関戸と貝取の境には関戸の鎮守熊野社が鎮座しているが、この辺りが「霞の関」あるいは「小野路関」と呼ばれる関所の比定地である。市役所東北側の通称「沓切坂」と呼ばれる坂に隣接する林の尾根には、鎌倉街道に沿うように道路状の遺構が確認され、古くはこれが鎌倉街道であった可能性もある。市役所前を過ぎた辺りに「古市場」と呼ばれていた場所があり、中世後期には市が立っていたという伝承がある(『関戸旧記』)。多摩診療所の交差点から街道は左に折れ乞田川を渡る。乞田川を渡った鎌倉街道は、貝取一丁目の丘陵の東側の谷戸を小野路に向って走る(丘陵の西側から尾根上を通る説もある)。残念ながらこの辺りは、多摩ニュータウン開発により景観を一変させているが、この丘陵の先端部には文政六年(一八二三)三月に掘り出された板碑群が立ち並び往時を偲ばせる(千々和一九九四)。
この道を南に辿れば、小山田保(町田市)に入り小野路の小野神社の前にでる。この小野神社の旧蔵になる梵鐘銘には、「朝夕扣撃し、それ往来の人をして、晩宿早発の時を知らしむ」「宿客に暁を報じ、路人に時を知らしむ」とあり、小野路には街道が走り、そこに宿もあったことがわかる(資一―708)。
多摩市内には鎌倉街道の他にもいくつもの道が通っているが、正和元年(一三一二)八月十八日の高麗忠綱譲状(資一―645)にある「おのみち(小野道)」は、現在「川崎街道」とほぼ重複する道であると考えられていた。近年落川・一の宮遺跡の調査で円礫を敷いた道路状遺構が検出され、川崎街道の古道に相当するとされている(落川・一の宮遺跡調査会一九九五)。これによって先の「おのみち」の存在が遺構上からも確認されたことになる。
また、連光寺の丘陵部では打越山遺跡から道路状の遺構が発掘された。この遺跡の付近には「早道場」という小字があり、発掘以前から鎌倉街道の「早ノ道」ではないかとの指摘もされていた(宮田一九八九)。この道は、近世絵図(富沢千司家文書)の「黒川道」に比定され、府中から黒川(町田市)へ通っていたと推定される。
図5―30 打越山遺跡
多摩市連光寺。
千々和到「入間市円照寺の板碑の『履歴書』」『国学院大学大学院紀要 文学研究科』二五、一九九四年
落川・一の宮遺跡調査会『落川・一の宮遺跡調査略報』Ⅲ、一九九五年
宮田太郎「「鎌倉古道」再考」『多摩のあゆみ』五五、一九八九年