境界地帯としての多摩市域

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中世武蔵国の中心都市府中からみた多摩川は、南側の境界線となっており鎌倉街道上道が多摩川を渡る分倍や関戸は交通の要衝でもあった。都市の境界は、川や山などがその役割を果たしていたが、その地は葬送や信仰の場となったり商業地としての機能を持つことがあった。この様な視点で府中の南側を見ると、府中崖線・多摩川の河川敷から多摩丘陵の縁辺部にかけて葬送地や寺社が集中している。この地域は、府中の境界地帯の一部となっていた。
 中世の多摩川河川敷には、天台談義所であった定光寺をはじめ墓地としての塚が築かれていた。三千人塚は現在も府中市矢崎町に所在する塚で、塚上には康元元年(一二五六)十一月日の年紀を持つ板碑が立つ。また、塚の発掘により常滑産骨蔵器を伴う三基の墓址が発見されている(深沢一九九四)。河川敷にはこの他に首塚・胴塚・耳塚・正戒塚などの塚があったことが知られている。これらの塚が全て墓地であったかどうかは明らかではないが、中世都市鎌倉の前浜や後背丘陵地の「やぐら」、京都鴨川の河原や東山が葬送の地であったことは、多摩川の様な都市の境界地帯が葬送の地として利用されていたことを推定させるものである。特に中世前期の社会では、遺棄葬(風葬)が広く行われており、その場所として河原・谷・野などが利用されていたとの研究がある(勝田一九八七)。
 府中の対岸多摩丘陵の縁辺部にも著名な中世寺院が所在する。すなわち真慈悲寺と金剛寺である。関戸の観音寺も「高幡不動胎内文書」に「くわんのんたう」と見え、十四世紀前半にはその存在が確認される。また、多摩市内の鎌倉街道沿いにも性格は明らかではないが、「安保入道道忍の墓」「横溝八郎の墓」と称される塚が存在する。また、鎌倉街道沿いの関戸・貝取の丘陵上には、中世墳墓群と考えられる場所がある。先述の観音寺には裏山から掘出された板碑が墓域に立てられている。その崖下には考古学的には未調査であるが「やぐら」ではないかと考えられる横穴があり、その前の小祠には数基の板碑が納められている。この近くには「安保入道道忍の墓」「横溝八郎の墓」と称される塚の他に「無名戦士の墓」と呼ばれている中世石造物が数基存在する。関戸の鎮守熊野神社の参道を東に直進して乞田川を渡ったところからは連光寺火葬墓跡が発掘され、骨蔵器が発見されている(資一・二四九頁)。その熊野神社の南側に広がる原峰公園内の墓地には、大小様々の板碑が存在する。なお、この原峰公園の梅林には、植林の際に多数の板碑と骨片が出土したとの伝承がある。また、この場所のことかと思われる菊池山哉氏の次の様な記述がある(菊池一九六二)。
  この地は共葬地らしく、広い範囲に大玉石が散乱し、火葬人骨が多数散乱している。既に何れも一部を発掘され、灰釉または常滑土器の破片が出たのみで、処女墳は一か所もない。以下玉石のみで骨壷のないもの、また最低のものとして、大玉石を除去せば、直ちに火葬骨の出土するものもあり、これ等の玉石はいずれも多摩川の河原石である。
 乞田川右岸の多摩ニュータウン地域では、造成以前に発掘調査が行われ、ここでも中世墳墓が出土している。落合のTNTNo.七四二遺跡では、土坑三基の他に五輪塔や板碑が出土している。また、貝取において文政六年(一八二三)に掘り出された板碑群は、鎌倉街道沿いの丘陵先端部に現存するが、その板碑は土坑の埋樋として再利用されていたものであるという。あるいは土坑を構築する時に、以前墳墓であったようなところから板碑を集め埋樋の部材として利用したことも考えられる。
 多摩市内の市場に関する史料は、十六世紀を待たねばならないが、関戸郷のなかで六斎市が開かれていた(資一―801)。また、時期や実態は明らかではないが、貝取に「古市場」、一ノ宮に「イチ場」という地名があった。
  深沢靖幸「武蔵府中三千人塚遺跡の再検討」『府中市郷土の森紀要』七、一九九四年

  勝田至「中世民衆の葬制と死穢」『史林』七〇―三、一九八七年

  菊池山哉「南多摩の史跡」『南多摩文化財総合調査報告』三、一九六二年、同氏『東国の歴史と史跡』一九六七年に再録