関戸と霞の関

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前項では、多摩市域を含め多摩川中流域が府中の境界地帯の一部であったことを確認したが、多摩市内にはもう一つそれを示す施設が存在した。それは、多摩市関戸の小字霞の関にあったと考えられている「霞の関」である。
 この霞の関が多摩市内の関戸と関連づけて現れる初見資料は、『曽我物語』巻第五の建久四年(一一九三)三月下旬に源頼朝一行が上野・下野の狩倉を見るために鎌倉を出発し関戸に宿泊するくだりである(資一―597)。そこには、平将門が関戸に関を立て、藤原秀郷が霞の関と名付けたと記されている。また、霞の関は数々の歌人等により歌枕として和歌に詠みこまれている(資一―六六六頁)。この中には、慈円・藤原定家・藤原道家など東国には行ったことが無い様な人々の作品が多い。この様な人々にも東路の霞の関が知れわたっていたのは何故であろうか。この問題の手掛かりになるのが都鄙(とひ)間交通の問題である。地方の情報を京都にもたらす一つの手段として、国司の離着任にともなう人の移動がある。任国に赴任していた国司が、京都に帰り歌会などの場で任国の名所などを和歌に詠んだものが歌枕として定着したとは考えられないだろうか。
 国司が受領として任国に下向していた平安中期ごろまでは、国境や国内の主要な境界地点などにおいて受領の下向を国衙の官人等が出迎える境迎(さかむかえ)という儀式があった。例えば、因幡国では美作国との国境であった境根で(『時範記』承徳三年二月十四日条)、大宰府では防衛線であった水城で境迎が行われており(『大弐高遠集』)、その場所や儀式の内容は国毎に違いがあったようである。ここからは推測になるが、相模国から北上して武蔵国に入った武蔵守は霞の関において武蔵国衙の官人等の境迎を受けたのではないだろうか。この様にして、武蔵国に赴任した受領の誰もが、霞の関を武蔵入国のランドマークとして意識していたのであれば、任を終えて帰京した受領等によって霞の関という地名が名所として京都に伝えられたとも考えることができる。また、和歌に詠まれた霞の関は春にかけられており、外官(国司)が春の県召除(あがためしじもく)の後に任国に赴任する季節と合致することも傍証になるのではないだろうか。さらに、境迎や境送などの儀式は、受領ばかりではなく庶民にも広がりを見せており、府中の住民が旅などの際に境迎・境送を行う場所の一つとして関戸の霞の関が認識されていたと考えられる。
 鎌倉時代の「霞の関」については、その機能を示す史料はあまり残されていないが、一般に中世の関所の機能は、関銭を徴収する経済的な側面が強調されている。しかし、一部の関所には古代的な軍事的かつ警察的側面が残っていたと考えられ、奥州の白河の関にも武器を携えた関守が駐在した。また、「霞の関」には宿としての機能を持っていた。右にも紹介した『曽我物語』には、建久四年(一一九三)三月下旬の源頼朝の上野・下野下向の際に「武蔵国関戸宿」に宿泊しており(資一―597)、翌建久五年六月十三日にも同じ「武蔵国関戸宿」の記載がある(資一―604)。時代は下るが、十六世紀には「関戸宿」に問屋が設けられており、流通の中継地として機能していた(資一―790)。

図5―32 白河の関
『一遍上人絵伝』(第5、第6紙)

 ところで、「霞の関」の比定地には、多摩市関戸の他に東京都新宿区千駄ケ谷と埼玉県狭山市に比定する説がある。多摩市説以外の説を否定するものではないが、「霞の関」前後の行程を記載している史料を見ると多摩市関戸に所在した関所が「霞の関」と呼称されていたことは確実であろう。
 中世の「霞の関」の景観については、十五世紀に活動した連歌師の飯尾宗祇による『名所方角抄』に次の様にある。
 霞関、西に高岡あり、東向の所なれは、富士見えす、西より川流れたり、
 この史料の記載を現地にあてはめてみると、西の「高岡」は桜ヶ丘の丘陵にあたり、鎌倉街道に沿って丘陵側に関所の施設があったとすれば、東に向っていたことになる。西から流れる川は、大栗川あるいは南西方向から流れている乞田川が該当するであろう。この「霞の関」が設置されていたと考えられる関戸五丁目辺りは、少なくとも中世以来の集落が継続して存在していたと考えられるが、一度だけ菊池山哉氏等により発掘調査が行われた。調査の時期は明らかではないが、一九六〇年から六一年にかけて東京都教育庁文化課の主導で行われた「浅川流域文化財総合調査」の一環として実施されたと考えられる。この調査では、関戸の鎮守熊野神社境内の土居とその延長線沿いに発掘が行われ、直線的に並んだ柱穴を検出している。菊池山哉氏は、この遺構を鎌倉時代における関所の南側柵跡と評価している(菊池一九六二)。しかし、時期に関しては根拠が薄弱であり、将来詳細な調査が望まれる。

図5―33 関戸柵列想定図
菊池山哉(1962)をもとに作成。

  菊池山哉「南多摩の史跡」『南多摩文化財総合調査報告』三、一九六二年、同氏『東国の歴史と史跡』一九六七年に再録