「霞の関」建保元年新設説について

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さて、この「霞の関」の設置に関して、建保元年(一二一三)十月十八日に新設されたという説が通説になっている。この説の初見は、関戸村名主相沢伴主の手により文政二年(一八一九)から天保七年(一八三六)の間に作成されたとされる『関戸旧記』である(比留間一九八三)。相沢伴主は『関戸旧記』の中で、『吾妻鏡』建保元年十月十八日条(資一―620)を引き、この時実検された「武蔵国新関」は、関戸の関であったとするものである。この説は以後も継承され、『南多摩郡関戸村誌』の古蹟の項でも展開されている。さらに、東京都文化財専門委員でもあった菊池山哉氏が、この説を踏襲したことによりほぼ定説化した観がある(菊池一九六二)。以後、「霞ノ関南木戸柵跡」が東京都の指定史跡に指定される際にも建保元年新設説が採用されている。
 ところが、「霞の関」は建保元年以前にも存在しており、『吾妻鏡』の最もよく利用されているテキストである『新訂増補国史大系』本では、「武蔵国新関」ではなく「武蔵国新開」になっているのである。「新関」が「新開」であれば、この時鎌倉幕府は新に開発した耕地を実検したということになる。この説に関しては、既に『新編武蔵国風土記稿』巻之九十八において「スデニ建暦以前関戸ノ名。昭著タレハ当所ノ新関ニアラサル事必セリ。」と疑義を呈している。ただし、「関」と「開」の文字がくずし字になればたいへん似た文字になる。この点に関しては、『吾妻鏡』諸本の校合が必要であろう。この場合、多摩郡の有力御家人横山氏が反乱に参加した和田合戦の直後でもあり、鎌倉を防備するために武蔵国内に関所を新設したと読む可能性は残される。しかし、いくら「新関」という文字が正しかったとしても鎌倉に通じる武蔵国内の街道は「上道」ばかりではないのであり、加えて新設された関所が一か所であるとも限らないのであって、「霞の関」に特定はできないのである。
 以上の様な理由により、「霞の関」の建保元年新設説は成り立たないが、このことは「霞の関」の史跡としての地位をおとしめるものではなく、反対に鎌倉幕府成立以前からの存在を窺わしめることとして認識すべきであろう。

図5―34 「関」と「開」の草書体

  比留間一郎「資料紹介『関戸旧記』」『郷土たま』二、一九八三年

  菊池山哉「南多摩の史跡」『南多摩文化財総合調査報告』三、一九六二年、同氏『東国の歴史と史跡』一九六七年に再録