得宗専制と御家人制の崩壊

615 ~ 616
宝治合戦で三浦氏を滅ぼし、御家人のなかの対抗勢力を押さえた北条時頼のころから、幕府の実質的な最高権力は執権職から遊離し北条家家督(得宗(とくそう))に握られるようになった。執権政治の中核であった評定も有名無実化し、重要な政務が得宗の私邸で開かれる「寄合(よりあい)」で決定されるようになった。蒙古襲来を契機として西国を中心に諸国守護の過半は北条氏一門で占められるようになり、さらに相次ぐ政争によって諸国の所領はつぎつぎと得宗領になっていった。得宗の権力が強大になるとともに得宗の家巨である御内人(みうちびと)が台頭して、御家人との対立が激化し、弘安八年(一二八五)霜月騒動で有力御家人安達泰盛が滅ぼされると、得宗の絶対的権威のもとに幕政の中枢は御内人と得宗家家宰である内管領(うちかんれい)に握られた。
 鎌倉幕府の支配の根幹は将軍と御恩と奉公との関係で結ばれた御家人制にあった。御家人は惣領を中心として庶子をその統制下におき、軍役・大番役あるいは関東御公事などの御家人役をつとめた。しかし鎌倉時代中期になると庶子の独立の動きがあらわれ、分割相続によって細分化された所領をめぐって一族・兄弟間での所領相論が頻発した。船木田荘内由井本郷地頭天野氏も顕茂・景広兄弟の間で相続をめぐって相論が起り、結局顕茂が由比本郷の三分の二、景広が三分の一を知行することで決着が付けられたが、その後さらに妹是勝からも訴訟が起こされ、さらにその一部が分割されることになった(資一―646・647)。こうした所領の細分化に加え、貨幣経済の浸透、蒙古襲来という対外危機を背景とした過重な軍役に追い打ちをかけられ、御家人のなかには所領を質入れ、あるいは売買して所領を失い、無足の御家人となるものが大量に出現した。幕府はたびたび御家人救済のため御家人所領の移動を防ぐ法令を発し、永仁二年(一二九四)には御家人所領の売買・質入れを禁止し、既売却地の無償取り戻しを命じる法令を発したが、かえって御家人への金融の道を塞ぐことになり、御家人の窮乏はさらに深刻化し、幕府の支配組織は根底から解体していった。

図5―35 光明寺残篇