討幕運動の展開

616 ~ 617
北条貞時のあとをついだ得宗高時は「すこぶる亡気の体にて、将軍家の執権もかないがたかりけり」といわれた人物で、高時が執権となると幕府の実権は内管領長崎高綱(円喜)とその子高資らに握られ、彼らの専横は極限に達した。さらに奥州で蝦夷の叛乱がおこり、畿内各地で悪党の蜂起が激しくなっていた。
 このような状況のなか、文保二年(一三一八)後醍醐天皇が即位した。後醍醐は院政を廃して天皇親政とし、意欲的な政治をおこなう一方で、ひそかに討幕の計画を進めていた。後醍醐の最初の討幕計画が発覚したのは正中元年(一三二四)である。幕府は日野資朝を首謀者として佐渡に流したが、後醍醐は不問となった。その後も後醍醐は南都北嶺などの寺院勢力の結集をはかり、討幕計画を進めたが、元弘元年(一三三一)四月、吉田定房の密告により計画は再び事前に発覚し、日野俊基・文観・円観らが逮捕された。八月後醍醐は京都を脱出して笠置寺(京都府笠置町)に入り挙兵した。九月初め、鎌倉から北条一門および足利高氏(後の尊氏)率いる総勢二〇万八千騎の軍勢が上京した。この軍勢のなかには、この後元弘三年(一三三三)多摩郡関戸の合戦で幕府軍として新田義貞を迎え撃ち戦死した安保道潭も一族を率いて加わっていた(資一―654)。九月二十八日笠置寺は陥落して後醍醐は捕らえられ、翌年三月隠岐に流された。しかしその後畿内近国を中心に討幕の機運がひろがり、護良親王が吉野で挙兵し、楠木正成も河内千早城で幕府軍との戦いを続けた。播磨の赤松や伊予の河野など畿内近国の土豪らのなかにもこれに呼応して挙兵するものがあいついだ。こうした情勢をみて後醍醐天皇は隠岐を脱出し、伯耆の船上山に立てこもった。幕府は四月十六日、名越高家と足利高氏を大将としてふたたび大軍を京都へ向けた。しかし足利高氏が幕府に反旗を翻したことで大勢は決し、六波羅探題は崩壊した。探題北条仲時以下六波羅軍は京都を落ち近江番場(滋賀県米原町)で自害した。番場蓮華寺にはこの時自害した四三〇人余りの姓名を記し供養した過去帳が伝えられている。六波羅探題が滅亡した五月八日、上野国で新田義貞が挙兵した。

図5―36 蓮華寺五輪塔群(滋賀県米原町)