分倍河原合戦と関戸合戦

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五月十二日の久米河合戦における幕府方の劣勢は、直ちに鎌倉に伝えられた。鎌倉では、得宗北条高時の弟四郎左近大夫入道恵性(北条泰家)を大将に府中分倍へ援軍を差し向け、十四日の夜半に分倍に着陣した。この時の幕府方は、鎌倉に直結する鎌倉街道上道に位置すること、討幕軍に対して多摩川という防衛線を持つことが出来ること、多摩丘陵の先端部から討幕軍の動向を掌握できることから現在より北側の分倍側を流れる多摩川本流の右岸に陣を取っていたと考えられる。一方、久米河合戦の勝利に乗じた新田義貞は、十五日払暁に幕府軍増強の情報を得ないまま分倍に突入したのである。この第一次分倍河原合戦の結果は討幕軍の敗北に終り、義貞等は堀兼(埼玉県入間市)まで退却した。ところが、『太平記』の記述によれば、幕府方は敗残の討幕軍の中から義貞を討つものが現れるものと予測し、徹底的な掃蕩戦(そうとうせん)を挑まずに分倍に陣をとどめていたのである。この幕府軍の状況判断が、討幕軍勢力の回復を可能にしてしまったのである。
 十五日の晩、堀兼に撤退した討幕軍は新たな援軍を得ることになる。失意の義貞を勇気付けたのは、三浦半島に拠点を持つ三浦大多和義勝に率いられた松田・河村・土肥・土屋・本間・渋谷等の相模国の軍勢である。義勝は、三浦半島の有力御家人三浦氏の一族であるが、実は足利氏有力被官の高(こう)氏の出身で、三浦氏の養子になっていた人物であることが指摘されている(峰岸一九九一)。
 十六日午前四時頃、兵を整えた討幕軍は幕府軍の寝込みを急襲する。これが第二次分倍河原合戦である。この時、討幕軍には江戸氏・豊島氏・蔦西氏・河越氏などの坂東八平氏、武蔵七党など武蔵国のおもだつ武士団が参陣していた。不意を衝かれた幕府軍は、十分な迎撃体制を取れないまま散り散りに鎌倉を指して退却した。広大な武蔵野台地から険しい多摩丘陵に入る鎌倉街道は、守るには要害の地であるが、そのほとんどが戦意を喪失してしまった幕府軍には行く手を阻む隘路(あいろ)同然であった。特に多摩丘陵への入口にあたる関戸付近では、凄惨(せいさん)な掃蕩戦が繰り広げられた。この関戸付近の戦闘を関戸合戦と呼ぶ。

図5―38 関戸遠景
多摩市桜ケ丘(通称「天守台」)より。

 関戸における戦闘では、幕府軍の大将になっていた恵性もあわや討幕軍の手にかかる寸前であったが、幕府軍に加わっていた横溝八郎という弓の名手が追いすがる敵二三騎を射落とし恵性の逃走を助けた。しかし、横溝八郎自身は主従三騎共々この地で討死したという。また、北武蔵の有力御家人安保入道道潭も恵性を鎌倉に逃すために父子三人、従卒百余人とともに関戸において討死を遂げた。その恵性は、鎌倉山内まで無事帰還している。
  峰岸純夫「元弘三年五月、上野国新田庄における二つの討幕蜂起」『日本中世政治社会の研究』一九九一年