横溝八郎と安保道潭

622 ~ 623
関戸合戦で戦死した横溝八郎と安保入道道潭は、多摩市民にとって最も馴染みのある歴史上の人物の内に数えることが出来る。しかし、その人物像までは必ずしも周知の事柄にはなっていない。
 横溝氏は、伊豆国を本貫(ほんがん)とする御家人藤原姓工藤氏の一族で、陸奥国に勢力を伸ばしていた。これは、北条氏が持つ陸奥国内各地の所領に地頭代として工藤氏が任ぜられたことによるものであろう。特に、横溝氏は陸奥国糠部郡内の各地で得宗領の給主として見られる。また、横溝氏は御家人でもあったが鎌倉前期からの得宗被官(とくそうひかん)で、得宗領の経営のほか北条氏への軍役なども勤める立場にあった。その一族と考えられる横溝八郎は、『御的日記』という史料の中にみえる横溝八郎高貞と同一人物であろう(資一―651)。この『御的日記』は、鎌倉幕府の年頭行事の一つである的始(まとはじめ)の記録で、弓矢に堪能な御家人を射手に選び、二人を一組にして弓矢を射させたものである。このことは、関戸合戦において横溝八郎が幕府軍の大将恵性においすがる敵兵を時の間に射落としたことを髣髴(ほうふつ)とさせる。『太平記』巻第十には、分倍に向った恵性の軍勢の中に安東左衛門尉高貞が見えるが、安東氏は陸奥国に拠点をもつ有力得宗被官である。得宗被官一般の間では姻戚関係を結ぶものが多く、安東氏と横溝氏の間にも姻戚関係があったとすれば、この安東左衛門尉高貞と横溝八郎高貞は、同一人物であったとも考えられないであろうか。
 安保氏は、武蔵国賀美郡安保郷(埼玉県上里町)を本貫とする丹治姓の有力御家人で、得宗被官にもなっていたと考えられている。特に、軍事面では承久の乱や河内千早城攻めでは部将として軍勢を率いる立場にもあった。『梅松論』にみる安保左衛門入道道潭は、『太平記』では安保入道道堪とも記されているが、実名は不詳で四郎左衛門尉宗頼・新左衛門尉経泰に比定する説がある。安保氏の本宗家は、関戸合戦で道潭父子が討死し、中先代の乱で道潭子息(実名不詳)が自害することにより絶えるが、足利方についた安保光泰によって遣領は継承され、北武蔵の有力国人として中世後期にも存在した。