一方、幕府もそれぞれに軍勢を差し向け、午前十時頃から両軍の戦端が開かれた。この攻防は、一日では決着がつかず二十日まで膠着状態が続いた。二十一日未明、新田義貞はこの膠着状態を打開するため極楽寺切通方面に軍勢を差し向けた。この極楽寺切通は、海岸側の鎌倉の西の入口で、その南には稲村ケ崎があり海岸には逆木が並べられ、海には幕府方の兵船が横矢を射んと備えていた。『太平記』によれば、稲村ケ崎の海岸を押し渡らんとした新田義貞は、自らの黄金造の太刀を海中に投入すると、俄かに潮が引きはじめ幕府方の兵船も沖に流され、討幕軍はこの干潟を駆け鎌倉に侵入しえたという。この新田義貞の稲村ケ崎突破については、磯貝富士男氏がパリア海退期にあった海水面の低下と、潮の満ち引きなどから十分可能であったことが明らかにされている(磯貝一九九一)。
この稲村ケ崎突破によって、極楽寺口は陥落し鎌倉は討幕軍により蹂躙(じゅうりん)されることになる。五月二十二日、進退きわまった北条高時は、一族とともに葛西ケ谷にあった北条氏の菩提寺東勝寺において自殺し、鎌倉幕府はこの日滅亡した。
図5―39 東勝寺跡腹切りやぐら
神奈川県鎌倉市小町
高時の遺児長男万寿(北条邦時)は五大院宗繁に、次男亀寿(後の北条時行)は諏訪盛高に匿われたが、長男の万寿は五大院宗繁の裏切により討幕軍の手で殺害された。次男の亀寿は信濃に落ちのび、建武二年(一三三五)七月に中先代の乱を起こして一時は鎌倉を回復するが、翌月足利尊氏に滅ぼされる。
磯貝富士男「パリア海退と日本中世社会」『東京学芸大学附属高等学校研究紀要』二八、一九九一年