分倍河原・関戸合戦の史料

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元弘三年(一三三三)五月十五日の第一次分倍河原合戦と十六日の第二次分倍河原合戦・関戸合戦の全貌は、後に編纂された『太平記』や『梅松論』に頼るしかないのが現状であるが、史料の性格上記載されている内容が全て事実であったとは考えられない。しかし、これらの合戦については断片的ながら同時代の史料が残されている。
 十五日の第一次分倍河原合戦については、市村王石丸代後藤信明軍忠状(資一―660)と徳蔵寺所蔵の元弘三年五月十五日銘板碑が残されている。後藤信明の軍忠状では、信濃国御家人市村王石丸の代理として五月十一日に討幕軍に参戦した後藤信明が、十五日の第一次分倍河原合戦において奮戦し、敵の首一つを分捕ったことがわかる。徳蔵寺の板碑は、十五日に府中において戦死した武蔵国御家人の飽間斉藤三郎盛貞・飽間孫七家行と十八日に相模国村岡において戦死した同族の飽間孫三郎宗長を供養するために造立されたものである。この板碑は、江戸時代の中期頃までは所沢市と東村山市の境にある八国山の「将軍塚」にあり、近世地誌にも取上げられる著名な板碑であった。

図5―40 元弘三年の板碑

 十六日の第二次分倍河原合戦と関戸合戦については、大河戸隆行軍忠状(資一―661)がある。大河戸隆行は、陸奥国宮城郡を本拠とする武士で武蔵国埼玉郡崛須郷にも所領を持っていた。その崛須郷代官であった岩瀬五郎入道妙泉は、十六日に分倍において討幕軍に参陣し、分倍河原合戦・関戸合戦をはじめ鎌倉での合戦を戦い抜いた。