横溝八郎の墓

626 ~ 627
関戸五丁目に所在する。天保七年(一八三六)の成立とされる関戸村名主相沢伴主の『関戸旧記』には「当所延命寺ノ前、畑中ニ古墳二ツアリ、一ツハ大ニシテ大樹アリ、一ツハ小ニシテ僅ニ存ス、此小ナル方ヲ横溝八郎ノ墳ナリト里言ニ伝フ、」とあり、『関戸旧記』に先んじて相沢五流・伴主父子により編まれた『関戸之記艸稿』には「横溝八郎の塚ハ延命寺の門前に存、是忠勇の難有きことなりと思うへし、」と横溝八郎の墳墓であることを断言している。『新編武蔵国風土記稿』には、「村ノ東ノ方延命寺ノ前ニアリ、周囲一丈許ニシテ、塚上ニ楢ノ大樹一本ヲ栽ヘタリ、相伝フ分倍河原合戦ノ時、戦死シタル横溝八郎ヲ葬セシ墳ナリト、ソノ正シキコトヲ知ラス、」とあり伝承を掲載しながらも信憑性については慎重な態度をとっている。『江戸名所図会』の取材記録である斉藤幸孝の『郊遊漫録(郊外聞見録)』には伝承として「横溝八郎墳墓」を採録しているが、大きな塚を横溝八郎の墳墓とし、小さな塚を横溝の家臣の塚としている。『新編武蔵国風土記稿』や『江戸名所図会』の編纂に際して、関戸村では名主の相沢伴主を案内に立てて取材したと考えられ、これらの情報源は相沢伴主によるものであろう。また、『新編武蔵国風土記稿』には塚上に元弘四年二月日の銘がある断碑が立っているとしているが、現在は失われている。ただし、この断碑については『関戸之記艸稿』『関戸旧記』に記載されておらず、相沢氏等によって運ばれてきたものかも知れない。この延命寺入口の塚について、『江戸名所図会』では「門の入口みぎの方畑の傍に、榛木の老樹を以て印とする古塚あり。正慶二年武蔵野合戦に討死せし四百余人の墓なりといへり。」と記しており、比定について混同が見られる。

図5―41 伝横溝八郎の墓