安保入道の墓

627 ~ 628
関戸五丁目小山三千雄氏宅の庭先に所在。外観は径五~六メートルの墳丘で、頂部に石造の祠が祀られている。この塚が所在する小山三千雄氏の宅地は、通称「相沢屋敷」と呼ばれ元は関戸村名主の相沢氏の宅地であった。伝承についての詳細は拙論(釈迦堂一九九二)を参照されたいが、『関戸之記艸稿』に「我等屋敷南の方に古墳あり、柏樹を植たり、是古の安保入道道堪父子三人の埋し塚ならん、」とあり、『関戸旧記』には「亦、予ガ屋敷内ニ一ノ古墳アリ、墳上ニ榧ノ一樹アリ、古木ニシテ半朽半活テ枝葉繁茂シアリシガ文政ノ初ノ頃枯タリ、是亦何ノ墳ト云フ事ヲ不知、按ズルニ、当所ハ古戦場ニシテ討死数多アレバ、其古墳ナルベシ、既ニ横溝八郎討死ノ時、安保入道討死スレバ、恐クハ是等ノ墳ニテモアルベクヤ、」と記し、相沢氏は邸内の塚の主を推定しているのである。斉藤幸孝は関戸村調査の際に相沢伴主から聞取りを行なったらしく、『郊遊漫録(郊外聞見録)』に「安保入道父子ノ墓 在所不知、関戸入口に一ツノ名主相沢源左衛門なる者、坪ノ内にも青石の碑建てる古墳アリ、榧ノ木茂り立、姓氏不知、もしくハ安保入道の墳墓たる、是ならんとハ、相沢氏の証作せられし、」と記して、塚の比定が相沢伴主によるものであることを明記している。
釈迦堂光浩「伝安保入道道忍の墓」『ふるさと多摩』五、一九九二年。拙論では、『南多摩郡関戸村誌(皇国地誌)』の編纂過程で『太平記』における「安保入道道堪」を「安保入道道忍」に誤記して、現在の通称「安保入道道忍の墓」になったのではないかと推測したが、千々和到氏の御教示により『参考太平記』の当該条に「左近大夫入道道忍」と記されていることを知った。従って、『参考太平記』あるいは金勝院本系『太平記』を参考に『南多摩郡関戸村誌』の編纂が行なわれたと推定できる。


図5―42 伝安保道忍の墓